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白く塗れ!?ポリコレあれこれ

いつからいつまで、なのかは覚えていないのですが、昭和の終わり、「小麦色の肌」というのが、美貌として語られていた時期がありました。平成の初期には「ガングロ」なんていう時期もごく短期間ありつつ(めっちゃ短かったけど)、「美白」なんていう時代が、だいぶ続いているように思います。

「小麦色」の時代、アグネスラム、南沙織といった「これぞ」といった人たちだけでなく、あんまり小麦色イメージのない松田聖子だって、「小麦色のマーメイド」なんて曲もあったりして、ジャケットでは日に焼けた肌が強調されていました。

たまりまへんな。

さて、最近、下記のブログ記事をTwitterでお見掛けして、興味深く読ませていただきました。

【ize訳】アイドルの肌を白く変えること

韓国の文化情報サイトizeの日本語訳に、翻訳者であるDJ泡沫さんがご自身のご見解を添えた内容になっています。元記事はBTSをめぐって、「マスター」と呼ばれる自らアイドルを撮影し、サイトや写真集に掲載する人たちが、メンバーの顔を白く修正している、ということについて主に欧米のファンから批判が寄せられている、というものです。

これについて、元記事はポリティカルコレクトネスの観点がより求められていると結んでいるのですが、翻訳者はそれに対して、美白的な価値観はむしろ韓国という国の文化にもともとあるのであって、より完璧な美しさを求め、それに近づけようという努力は、例えば一糸乱れぬダンスの質の高さなどにも同様にみられること、つまり「固有の文化」に由来するものである可能性があるのではないか、と考察されています。

その上で、あるBTSのマスターが述べたとされる「白人に似せようとしている、という風に考えること自体が差別的ではないか」「見たくなければ見なければよいではないか」という趣旨の発言に基本的に同意しています。

欧米由来のポリティカルコレクトネスの考え方は、どこかお説教臭く、とくにその外側に住むものにしてみれば、自分たちの「固有の文化」を否定する普遍主義の名を借りた西洋中心主義に感じられるというのは、確かにあるよなあ…と思いつつも、簡単にポリコレを捨ててよいのかしらん…とも思ったり(註1)。

そんなことを悶々と考えながら、検索をかけてみましたところ…

”white washing”

確かにK-POPそれもBTSに関するものが多いのですが、一つ目を引いたのがTWICEのツウィです。

いくつかのツイートで、白くレタッチされた(のかどうか私には判断しきれませんが)顔と、本来の(として挙げられている)いかにも南国の娘らしい「小麦色」の顔を並べ、「ツウィの肌を白く塗らないでくれ」と主張しているのです。

はっとしました。

私はブログやツイッターで何回かツウィの画像を使わせてもらったことがありますが、気付かないうちにより「白く」写っているものを選んでいたかもしれません。それはそれで罪のないことなのかもしれませんが、それを「美しい」ものとして拡散させ、それが結果的に「白く美しいツウィ」像の<構築>に加担していた可能性は否定できません。仮にそう見られることをツウィが望んでいたとしても、その実践の「政治性」を拭い去ることはできないしょう。

正直に告白すると、私は色白な肌の女性アイドルの方に、より艶めかしさとか、色っぽさを感じて、画面を通してそちらにじっと視線をやってしまう方だと思います。しかし、そうした自分のある種の「萌え」は、それを言葉や何らかのアクションにしたとたん、単に私的なものであるばかりではなく、とくにSNSにおいては簡単に、「白い美しい○○」という<現実>の<構築>に加担していきます。

他方で、考えてみれば、冒頭で述べた「小麦色」の時代、小学生の私も、おそらく当時の白くない肌の表現に(今風にいえば)子どもなりに「萌え」ていたと思いますし、美的な感覚というのはそのくらいに変化したり他から影響を受けるもの、なのだろうとも思います。あの時代にSNSがあれば、私は「小麦色」を拡散させていたかもしれないのです。

だとすれば、いま「自然」に「いいなあ」と感じること、それ自体を否定する必要はないだろうけれども、自分が何気なく「感じている」以上に、それは「作られている」ものだし、「作る」ことに加担もしている。そしてそれは、何か特定の人々を排除したり、傷つけるような意味を持っているかもしれない。そんな緊張感くらいは持っていたいなあとは思います。

そしてこれは、当の「文化」や「美的判断」のためにも、大切なことなのかもしれません。

現代社会において、様々な価値領域はそれぞれ自律しており、一方の価値で、他方の価値を支配してはいけない、という「機能分化」の所作は先進諸国を中心にかなり浸透していると思います。その観点からすれば、政治的な「正しさ」という価値判断を、文化的な「美しさ」の判断に持ち込まれる違和感というものは、確かにあります。

しかし、文化的な「美しさ」の判断をめぐるコミュニケーションが、それ自体でより豊かに展開する(システム論風にいえば、コミュニケーションシステムが自己生成し続ける)ためには、その都度、他の価値領域からの刺激を取り入れていく必要があります。そうしなければ、文化というコミュニケーションシステム自体が硬直化し、新たな「差異」を生み出せなくなり、やせ細っていくことにもなりかねません。

だとすれば、ポリティカルコレクトネスの議論は、単に「政治や倫理に文化を従属させる」ということではなく、むしろ政治や倫理といった他の価値領域からの刺激を取り入れ、文化的領域を豊かにしていくための「しかけ」のようなものになりえます。ポリコレは文化を縛るものなのではなく、むしろその可能性を拡大するものだ、と。これは、機能分化社会の本家、欧米社会が生み出したある種の「知恵」とでもいえそうな気もします。

ところで、ツウィの肌色を問題にするツイートのなかに、「ゴーストみたいに白くしないで!ツウィの肌は本当はこんなにゴージャスなんだから!」というような表現があって、「お」と思いました。私の語彙のなかに「ゴージャス」という表現はないのですが、なるほどたしかに「小麦色」の肌は「ゴージャズ」なんだなあ、と目が開かされた気分になりました(註2)。

そうそう。ゴージャスなお肌といえば、俺たちのユリ、俺たちのソルヒョン、がいますよね~。

う・ら・や・ま・し・い!!!(←ZICOとか野球選手とかな)


註1:これは、政治哲学における、J.ロールズの『正義論』に対する共同体主義からの批判、の構図に似ています。
 なおこの記事でDJ泡沫さんがポリティカルコレクトネスを名指しで否定している、というわけでは必ずしもないのでその点は誤解なきようにお願いします(原文をお読みください)。もしかすると心情的にそうなのかもしれませんが、記事そのもので語られているのは、あくまでもBTSをめぐる議論に対しての見解です。

註2:小麦色の肌、の話しは、同時に、色白=高貴、褐色=野趣というような図式の中で機能してしまうこともあり、それはそれで「エキゾチズム」の問題につながります(メンドくさいですか?)。この「ゴージャス」という表現は、そうした価値観も相対化するという点で、とても面白いと思います。おそらく、こうした表現は「肌」をめぐる議論では定石的な表現なのだろうと思いますが、私のような「おっさん」からしてみれば、いまもって新鮮な表現です。ゴージャス!


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