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スペースインベーダーの登場

 1978年6月、のちに世界を席巻することになる『スペースインベーダー』(台東貿易、1978年6月)が発売されました。スペースインベーダーは縦に5段、横に11列の計55匹のインベーダーが、プレイヤーに対してミサイルを落としながら、地球へ侵略してくるというシューティングゲームです。

 インベーダーはまとまって横方向へ移動をしていき、どれか1匹が画面端まで辿り着くと、少しだけ侵略(全体的に一段下がる)してきます。 そして逆方向へ移動を始め、今度は反対側の画面端まで向かい、そこでまた少しだけ侵略をするというジグザグ運動を繰り返します。

 インベーダーがプレイヤーの存在する地表まで降り立つと占領されたことになり、 残機があってもゲームオーバーとなってしまいます。 ですから、プレイヤーは占領されないようにすべてのインベーダーを撃退しなければなりません。 画面上に存在するインベーダーをすべて撃退すると1面クリアとなり、 最初から少し侵略された状態で次の面が始まります。

企画から製作まで

 スペースインベーダーの企画は、それまでにブームとなっていたブロック崩しタイプのゲームよりも、さらに面白いものを作成するという方向で立案されました。ブロック崩しのゲームデザインを元にしながら、 ブロックのキャラクタを変えてシューティングゲームのような形へ徐々にシフトさせていったのです。「宇宙人が攻めてくるゲームにしよう」と構想したのは、日本でも公開されてヒットした映画『スターウォーズ』から着想を得ています。

 開発途上のスペースインベーダーは、非常に人気の高かったアイドル歌手ピンクレディー が歌っていたヒット曲『モンスター』をもじって『スペースモンスター』と名づけられました。 その「モンスター」の原型となったのはHerbert G.Wells原作の小説『宇宙戦争』(1897, Herbert G.Wells)に登場する火星人です。火星人はタコがモチーフとなっていましたが、 スペースインベーダーではバリエーションを持たせ、「タコ」「カニ」「イカ」がモチーフとなりました。

 スペースインベーダーは技術面からも新しいアプローチが行われました。当時のゲームはエレメカも含め、ひとつのゲームを作成するためには、ハードウェアの設計から新しく行わなければなりませんでした。しかし、それでは設計を行うためにかなり時間を割かねばなりません。そこで西角友宏は、以前に作成したゲーム『ウェスタンガン』(1975, タイトー)で利用したマイクロコンピュータを採用することに決めました(画像はウェスタンガンの画面を再現したドット絵)。

 西角がマイクロコンピュータを採用したのは、ソフトウェア時代の到来を予測した上での決断でした。マイクロコンピュータを利用すれば、それまでのゲームでは表現できなかった方法でグラフィックやキャラクタを動かすことができるという確信を持っていたのです。

 しかし、日本のゲーム開発では、まだマイクロコンピュータを利用する企業はなく、もちろん気の利いたマニュアルは存在しません。そこで西角はアメリカで行われていた技術的な講習会に参加したり、Midway社の基盤を解析したり、英文の資料や書籍などをつたない英語力で訳しながら、少しずつ勉強をしていったのです。

 ゲームの構想ができた後、スケッチブックへ原画を起こし、それを元に自作したライトペンを使いながらドット絵を作成、アニメーションするキャラクタを仕上げていきました。当時のゲーム開発はひとりがすべての作業をこなすことが当たり前の時代でしたから、西角は企画からハード設計、プログラムまでをすべてひとりでこなしていました。

 開発に必要となるライトペンやアニメーションツーなどもすべて自作しています。なぜならゲーム開発に使えるようなツールを購入すると1,000万円ほど必要になり、中でもマイクロコンピュータ『i8080』の開発装置は500万円ほどで、とてもとても購入できるような代物ではありません。スペースインベーダーの開発は試験的な位置づけで、予算はほとんどつかなかったのです。

 もちろん、西角は社内でIntel社から開発機材をレンタルしてくれないかと相談しましたが、あっけなく断られています。上司にも相談しましたが「自分でやれ」と、けんもほろろに一蹴されたといいます。しかし、よく考えてみれば、まだ売れるかどうかもわからないものに予算が割けないのは当たり前です。

 西角がすごいところは「研修みたいなもんだし、自分でゲーム基板を改造して作ってみるか」と開き直った点です。そして、すべてを自作するだけの才能と技量を持ち合わせており、そのための努力を惜しまなかったことを総合的に見れば天才だったと評価することができます。

 スペースインベーダーは企画から1年以上掛かって完成しましたが、その開発期間のうち6割以上がこれらの自作ツールに掛かっています。途中、ゲームの開発を完全に止め、ツールの作成に1ヶ月ほど専念する期間もあったそうです。

社内へのお披露目は好感触

 開発開始から7~8ヶ月ほど経ったころ、そのような実情を知らない上司から「西角、そろそろできてきたか?」と言われ、社内へお披露目することになりました。まだゲームは完成はしていなかったのですが、遊ぶことはできるレベルには達してしており、「ちょっとやらせてみて」と社内のエンジニア達が群がってきたそうです。

 困ったのはスペースインベーダーの試作機は1台しかなかったことです。開発を続けたい西角が返してもらおうとしても「もうちょっと、もうちょっと」となかなか返してもらえず、開発チームのメンバが代わるがわる遊びに来るものだから半日以上も仕事にならないこともありました。さらに完成間近になるとほぼ丸1日中遊ばれるようになってしまったのです。

 開発チームの中での評判はかなりよかったのですが、 営業サイドからは「難しい」とか「売れない」などハッキリ言われたそうです。それまでのシューティングゲームと言えば、プレイヤーが一方的に敵を撃つことはあっても、敵がプレイヤーを認識して攻撃を加えてくることがなかったからです。

 今までは西角が作成したゲームを「いいね、いいね」と売ってくれていた営業担当も 、「まだ残機が残っているのに遊べないというのはどういうことか。これではお客さんからクレームが出る。これは許せない。」という厳しい意見がされました。「侵略されたらゲームオーバー」というシステムに対し、とても厳しい評価を下したのです。西角はこのような評価をされることは初めてだったといいます。

 営業担当から直すように言われた「侵略」について、西角の答えは「もう時間がないので直せない」という開き直でした。この開き直りには開発部長も厳しく意見するしかなく、「もうどうなっても知らないぞ。売れなかったらお前が責任を取れ。」と言い渡しました。しかし、西角は開発チーム内では評価がよかったこともあり、売れることを確信していました。

展示会では失敗、しかし・・・

 スペースインベーダーは6月16日にタイトー本社ビル1階にあるショールームで行われた展示会に、 6月23日には国際貿易センターで行われた新作品展示会で発表されました。営業の予想した通りに業者からの評判も芳しいものではなく、ほとんど売れませんでした。営業担当からも「他のは売れるがお前のはひとつも注文が来ない」と報告を受けたそうです。

 当時、タイトーには直営しているゲームセンターがありました。西角は「元くらいは取れるだろう」と半ば諦めたように店頭に置いてもらったのですが、今までにない目新しさからたちまち人気となって注文が殺到し始めました。7月の発売以降、タイトーの宣伝活動も手伝って販売台数は月を追うごとに倍近いの台数を売り上げ、 1978年12月までには14社に対して販売許諾したものを含めると、のべ10万台を販売しました。

 このような経緯で1978年10月から1979年の初頭にかけて日本中を席巻したスペースインベーダーは、 ゲームセンターのみならず、あちこちの喫茶店にまで置かれるようになりました。さらにはインベーダーばかりを店内に置く「インベーダーハウス」と呼ばれる特異な営業形態も生まれました。スペースインベーダーに客を取られ、売り上げが減って行ったパチンコ屋が軒並みインベーダーハウスに変わるほど、インベーダーたちの侵略はすさまじいものでした。

 発売から2ヶ月程度しか経っていない9月になると、ついに生産が追いつかなくなり、供給不足に陥ってしまいました。1台でもスペースインベーダーを手に入れようと思ったオペレーターやディストリビューターは、タイトー本社まで日参するまでになりました。売価70万円に対して現金100万円を持って来て「売ってくれ」という人もあったかと思えば、「国会議員の紹介で来た」という人まで現れる始末です。それどころか、国会議員が自ら電話をかけてきたこともあり、「現金で5,000万円の用意があるから何とかまわしてくれないか」と述べたという逸話もあります。

 作っても作っても足りないということは、裏を返せばニセモノを作っても売れて儲かるということです。ブームに便乗したゲームメーカーが乱立し、製造許諾をしていない大量のコピー基盤が作成されるようになりました。 このインベーダーバブルに乗っかってインベーダーゲームを作成・販売した会社は、30社ほどになるというのですから、ブームの凄さがうかがい知れます。

 面白いのはそれぞれのコピーゲームで微妙に違う点があって、たとえば『口裂けインベーダー』(1978年、メーカー不明)などはインベーダーが移動するときに真ん中が裂け、その隙間を狙うと30点インベーダーを倒すことができるようになっていました。『スペース・フィーバー・ハイスプリッター』(1979年、任天堂)はインベーダーを倒し損ねると分裂して増えたりします。このように各社でちょっとずつ改造されたインベーダーは、当時を知る方によると50種類ほどのバリエーションになったそうです。

 また、販売価格に少し色をつけ、インベーダーの基盤を売り、定価の分は会社に支払い、残りを懐にしまったという営業担当も中にはいたようです。明らかな着服でしたが、それを見抜くことができないほどの社会的な混乱があったとも言えます。

 スペースインベーダーの人気の凄さはどれほどのものだったのでしょうか。 それを示すいくつかもの逸話が残っています。ブームの真っ最中ではスペースインベーダーを遊ぶために4時間待ちができるほどで、糸井重里は遊べる穴場を探しにホモバーまで行ったと語っています。

 他にもこんな逸話があります。ある日、タイトーのサービスマンがあるゲームセンターへ行くと、 100円玉が入らず機械が動かなくなっていたという苦情を受けたそうです。筐体を開けて調べてみるとコインケースから漏れだした溢れんばかりの100円玉のせいで100円玉が投入できなくなっていました。100円玉は週に2回ほど集金していたそうですが、その間に次々とコインが投入されたため、ついには溢れ出してしまったのです。

 タイトーはこの一件以来、筐体内にあるコインケースを4倍ほどの大きさに改良して対処しましたが、今度は集金する100円玉が増えたことにより、ゲームセンターの業務に支障が出るような別の問題が発生しました。ゲームセンターは業務開始時に前日に集金した100円硬貨を集め、銀行で紙幣に両替します。しかし、100円硬貨の山を前にした銀行窓口では、業務に支障が出るとして両替を拒否したのです。これには双方ともかなり困ったでしょう。

 以上のような逸話を残すほど巨大な社会的ブームになったスペースインベーダーブームは、日に日にインベーダーと戦う人を増えしていきました。その結果、市場に出回る100円玉が不足するという事態も引き起こし、1979年4月に造幣局は例年の3倍にもなる6,600万枚もの100円玉を増発しました。

 最終的には発売から1年ほどで約30万台が市場に出回り、2,000億円を超える売り上げとなったといいます。たったひとつのゲームが短期間に稼いだ記録としては、もはやギネス級といっても過言ではないでしょう。

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