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世界初のアーケードゲーム

 ブッシュネルは最初からアーケードゲームの開発にたずさわっていたわけではありません。アンペックス社の社員として働いている日々の中で、コンピュータの値段が徐々に下がり、おおよそ8,000ドル程度にまで下がってきたのを知り、既製のICとうまく組み合わせれることでコストダウンできると判断したため、学友のテッド・ダイニーとシジギ(Syzygy)という会社を興してゲーム開発を始めたのです。

 シジギがはじめて製作に取り掛かった最初のゲームは『Computer Space』と名付けられ、完成したものはナッチング・アソシエーツ社へ売り込み、なんとか販売へと漕ぎつけたのでした。Computer Spaceの筐体にはシリアルナンバーが振られており、その数は1,500台でした。

 1970年代初頭の遊園地にあったのは、21世紀まではよく見かけることができたエレメカでした。ブッシュネルはこれらのエレメカを参考に、お金を入れて「ちょっと遊ぶ」ためのアトラクションとしてビデオゲームを作成したのです。

 同じ頃、タイトーなど日本の企業も多くのエレメカを販売していたのです。たとえばComputer Spaceが発売される前年にガンシューティングゲーム『スカイファイター』(1970, タイトー)を発売し、翌1971年には続編の『スカイファイター2』(1971, タイトー)も販売しています。スカイファイターがヒット作品だったのは、翌年すぐに続編が販売されていることからもうかがい知ることができますね。

 歴史の妙と言えばよいのでしょうか。面白いことに、このスカイファイターを開発した人物が、のちにスペースインベーダーを開発して日本中をわかせることになる若き日の西角友宏なのです。さらに驚くのは、このスカイファイターを開発した西角は、なんと入社1年目だったというのですから、すでに頭角を現していたということになります。

 もうひとつ、1970年代初頭に流行っていた遊びが「ピンボール」です。「フリッパー」の愛称で親しまれ、日本のゲームセンターにもよく置いてありました。後年になって社名が登場するバリーやミッドウェイといったメーカーは、もともとはピンボールを販売している会社だったのです。これらの会社も、ゲーム市場の規模が膨らむにつれ、アーケードゲームを作成するようになっていったのです。

 それぞれ別の場所で、同じ時期、そして同じゲームを源流に持つコイン投入型のゲームが完成したことは、 正にシンクロシニティと言えるでしょう。これは興味深いところだと思います。

 一方、Galaxy Gameはしっかりした筐体が作られていたにも関わらず、あくまで個人が作ったものであり、商業ベースに乗っていない理由でアーケードゲーム史には登場しないこともあります。これは残念なことでもあります。現代であればインディーズゲームとして脚光を浴びていた可能性はあります。

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