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インベーダーバブルの終焉

 スペース・インベーダーの登場は産業バブルを起こしました。 雨後のタケノコのように多くのインベーダーゲーム制作会社が乱立され、スペース・インベーダーのコピー基盤は大量に作成されました。これらコピー・インベーダーの数は50~70種類にものぼると言われています。

 警察庁がテレビゲーム機について初めて本格的な調査を行い、8月16日に発表した結果では、全国7万の店舗に設置された28万台のゲームのうち、81%に当たる23万台がインベーダータイプのゲームだった(7月1日現在)とのことでした。設置されている場所は喫茶店が66%、喫茶店以外の飲食店が22%、ゲームセンターが12%という比率で、喫茶店はインベーダーに侵略されてしまったことがわかります。

 相次ぐコピー・インベーダーの乱造を受け、タイトー社は1979年4月7日にワールド・ベンディング社とフジコロム社に対し、便乗商法であるという理由から、コピー・インベーダーの製造販売を差し押さえを求める仮処分申請を大阪地裁へ提出しました。当時、タイトー社がスペース・インベーダーで売り上げていた金額は2,000億円を超えると言いますから、オリジナルを作成していたタイトー社はコピー・インベーダーによる莫大な損失を防ぎたかったのです。ただ、裁判を行うにしてもテレビゲームに関する判例はまだ存在せず、当のタイトー社も『Depth Charge』をコピーした『サブハンター』をはじめ、いくつかの類似ゲームを作っていたのです。

 当時の日本では、どこかのメーカーがヒットする作品を出せば、ハードウェア・ソフトウェアの技術を問わず、それをコピーして追従することがメーカーの間ではなかば常識となっていました。ですから、仮処分申請をしたタイトー社に対し、他のメーカーからは「独自性の主張するのは独占禁止法と矛盾するのではないか」という意見が出されたりしました。

 仮処分申請後もコピー・インベーダーの製造が留まらないことに業を煮やしたのか、タイトー社は1979年5月4日の午後、日本物産社と東亜セイコー社を相手に、大阪地方裁判所で訴訟を起こしました。中でも決定的な裁判とされたのがウコー・コーポレーション社を相手取った訴訟で、東京地方裁判所はタイトー社の意見を認める判決を下し、ウコー・コーポレーション社へ損害賠償を命じました。

 ちょうど1979年春先からインベーダーに関連する社会事件が連日にわたって報道され、新聞各紙を賑わせ始めていました。インベーダー自粛宣言と、それによって起った店頭から筐体の自主的な撤去などもあり、インベーダーブームは潮を引きました。まさに「狂騒」とも言える一大ブームは終わったのです。

 この煽りを受けインベーダー倒産が相次ぎました。結果、ピーク時には28万台もあったゲーム機は、1980年1月までに半分程度まで落ち込んでしまいました。それでも半分程度で済んだのはライセンス契約を行ったインベーダーや和解した会社のインベーダーが根強く残っていたからです。

 運良く生き残ることができた会社は、インベーダーを発展させたゲームの開発に注力するようになります。悪い言い方をすれば「二匹目のドジョウを狙え!」ということなのですが、そのお陰で「アイディアを発展させ追求していく」という黄金期に突入していくことになります。

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