舞台『未婚の女』を観劇して

こんにちは。れすです。

舞台『未婚の女』を観劇しました。

1945年に現代と、時系列が入り乱れていることもあり、昨年のオルレアンの少女と較べても難解な舞台でした。とりわけ終盤、マリア、イングリッド、ウルリケが順々に迎えた結末がどんなものだったかは終劇しても明言はされず、その解釈は観劇したぼくらに大きく委ねられていました。千穐楽のカーテンコールで小田さんが仰っていた「みなさんの感想一つひとつが正解」はまさにそんな心情を突いたお言葉でした。
そんな難解さと解釈の自由さのバトンを渡されたわけですが、大好きな夏川さんと深作組の皆さんからなにか大きなものを受け取ったという感覚はたしかにあって、やはりその気持ちに目を逸したりはできないので、せめて自分自身がどんな劇をみて、どんなことを感じたのかは文章にして残しておこうと思います。

登場人物と時系列

さて、こうして文章を残すにあたって、直感や印象に頼ってしまうと、どうにも読んだ人に何かを伝えられる気がしてこないので、まずは舞台『未婚の女』の内容を整理するところから始めたいと思います。

1945年4月、オーストリア北部の村。
ナチスドイツによる支配が終わる数日前、一人の若い男が〈脱走兵〉として処刑された。
兵士を密告したのは、村に住む若い女・マリア。
しかし戦後、価値観は一転し、マリアは〈ナチスの協力者〉として裁かれる。
時は流れ、現代—
若い孫娘・ウルリケは祖母のノートの存在を知り、事件の真相に迫る。
一方、ウルリケの母・イングリッドは、母に対する〈復讐〉を誓い……。
浮かびあがる【三世代】、三人の女たちを〈抑圧〉する心の闇。
過去と現在が交錯しながら、やがて物語は衝撃のクライマックスを迎える―

あらすじ(公式サイトより)

主たる登場人物としては、三世代に渡る「女」たち、マリア、イングリッド、ウルリケで、彼女たちに起こった出来事が物語の主軸となっています。また、彼女らと同じくらい重要な役割を果たすのがコロスの「四姉妹」。初日の公演で、男性4人が黒装束のスカートと顔の半分ほどを覆う白化粧で入場してくる様に驚かされたのを覚えています。四姉妹は、裁判官・父親・弁護人・検察官、男たち、囚人の女、看守・証人・兵士・所長、看護師を代わる代わる演じ、能舞台の四方の柱のように舞台を下支えていました。

本舞台を難解にしている要素の一つが入り乱れる時系列です。
メモを頼りにプロット[1]を起こしました。このブログを読んでいる皆さんの記憶を刺激して、新しいブログが書かれることを祈っています。

現代に繰り返される、忘れる必要があった過去

プロットでは大きく過去と現代に分けましたが、マリアが独居房で横になり病院で目が覚めるシーン、女囚人に襲われ看護師にベットを間違えたと諭されるシーン、マリアの最期のシーンと、過去と現代があやふやになるシーンが存在します。シーン以外にも、マリアが護送車からタクシーに言い直すなど、過去と現代の混濁が示唆されています。タイムトラベルや過去回想といった時間を扱うアニメや映画では、16:9の画面を4:3に変える、画面にアナログノイズを与える、あるいは背景美術で当時の景観・街並みを描くといった手法で、視聴者にも視覚的にわかりやすく表現できますが、舞台ではそういった手法が使えません。初日の観劇では、今演じられているのがどの時間軸の場面なのかを理解するのに必死でした。舞台『未婚の女』においては、むしろこういった舞台の特性を自覚的に利用し、時系列の複雑さと三つの世代の境界を曖昧にすることで、現代を生きる観劇者への問いかけへと昇華されていました。

過去と現代はマリアのモノローグによる重ね合わせだけでなく、赤い糸を用いて行われるマリアとウルリケのあやとりにも表れています。祖母から孫娘へと渡される赤い糸には、血脈として人類に受け継がれ、繋がっていることが示唆されているようで、ぼく自身年齢的にも一番共感しやすいウルリケを通じて、過去に起こった出来事を知らない罪を突きつけられているように感じました。実際に経験していないからこそ、こういった戦争を題材とした作品に触れると、条件反射的に「忘れてはいけない」と言いたくなってしまうことがあります。
ぼくは戦争を経験した世代ではありませんが、祖父母は第二次世界大戦を直接経験した世代でした。子どもの頃には総合的な学習の時間などで、祖父母へのインタビューが課されることがあり、提出する感想文には決まり切って「忘れてはいけない」と書いていた記憶があります。

ところで[10]では国家建て直し政策として、周囲に同調しただけの小物ナチを社会へ統合するためのアムネスティー(恩赦・忘却)政策について述べられています。

「民主主義を軽視し、暴力や犯罪、迫害や弾圧を繰り返し、さらには戦争とその結果オーストリア全土に荒廃をもたらしたナチ体制の支持者たち」は「反ファシズム精神」に基づいて、「厳重に処罰されなければならない」が、単に「意志の弱かった者」や「経済的に困窮していた者」、或いは周囲の状況に仕方なく「同調した」だけでナチズム犯罪に関わっていない者は、何も恐れることなくオーストリア社会に復帰すべきである、というものであった。このように元ナチを、漠然とではあるが、「大物ナチ」と「小物ナチ」に区別し、前者の追求と後者の早期の「再統合」を目指す、それがレンナー政府の非ナチ化政策の出発点であった。

[10]より引用

同調しただけの彼らに罪があったのかは難しい問題ですし、[9]でも脱走者の復権に関して、脱走者を赦す赦さないは一律に定まるものではなく、個別審査が必要だと何度も主張されたことが述べられています。しかし、個別に論じることができないくらい多数の人たちが存在する世界で、社会はどのような痛みを受け入れ、何に目を瞑って先に進んでいくのかというのは非常に悩ましい問題です。忘れることで赦され、そうすることでしか前に進めなかった社会が、忘れてしまったが故に罪に問われる矛盾こそが「人はみな罪人」という台詞にも繋がっているように思えました。

全体主義と目指すバランス

オルレアンの少女を観劇した際のブログで以下のようなことを書きました。

産業革命以降、英国や日本といった地理的に国への帰属意識を育みやすい国々が近代国民国家化をいち早くに成功させたように思えます。シラーがオルレアンの少女を書いた1801年頃はまだナショナリズムが確立には至っておらず、[4]でも「コスモポリタン的な啓蒙時代とナショナリズムの時代のはざま」と表現されています。

舞台「オルレアンの少女-ジャンヌ・ダルク-」を観劇して, れす

この近代国民国家化の潮流は、ある意味で過学習的ではありますが、その因果関係に確信を持つに十分な検証を待ってはいられないほど逼迫した世界情勢の中で、誤った方向に進んでしまうことはあるのでしょうし、人類は実際にその道を一度辿ってしまったのだと思います。マリアがウルリケと樹の根元にいくシーンでは「遠くを見ていないといくら目が良くてもだめになる」という台詞がありますが、遠くではなく、近くばかり見ていることは、近代化を示唆し、マリアの台詞は全体主義が歩んだ道を近視眼的だと批判しているようにも聞こえました。

もし善の中から良いことしか生まれてこないとしたら
それは不自由な片輪な状態
善の中から悪が生まれるってことも、その逆もまたありえる

劇中のウルリケの台詞より

ウルリケの思考実験においても、全体主義による均一化もまさに、ある一つの側面からみた善を突き詰めた先にあったと示唆されるような台詞でした。

今また、新たなる全体主義が生まれようとしている現代。私たちは第二第三のヒトラーを生み出さないためにも、再びドイツの歴史から学ばなくてはなりません。

舞台『未婚の女』パンフレットより

当然、ナショナリズムは全体主義ではありませんが、そういった主張[2]が存在する程度には混同されがちな概念でもあるのでしょうし、ナチ党の唱えた民族共同体[3]はナショナリズムが過度に行き過ぎた人類の誤りの極地と言えるかもしれません。

しかし、全体主義の否定が即座に個人主義に繋がることもないはずです。
国家に比べたらずっと小さな集団ではありますが、ぼくが所属している会社でも、組織の大きさとセクショナリズムはとても悩ましい課題です。一の説明で十をわかってくれる存在というのは非常にありがたいですし、事業を成す上で、価値観や思考が似た集団が出せる俊敏性は、異なる価値観を持ち都度合議が必要になってしまう集団よりも速くなりやすいことも事実です。当然、異なる価値観を持っていないが故に、多様性を受け入れていれば当然に気づけた落とし穴に嵌ったり、炎上してしまうこともあるでしょう。
ぼく自身ここについてまだ考えを巡らせている最中ではありますが、多様性というのは、速度が比較的重要ではない局面や、大きな人数が集まった集団によってより大きな意味を持つものなのではないかと考えています(決して多様性を否定する主張ではありません。多様性は社会の雰囲気や要請によって渋々受け入れるものではなく、それ故の強さがあるのだと信じているからこそ考えを巡らせています)。正直、多様性の問題は言及することそれ自体を避けてしまいがちで、本当に難しい問題ではあるのですが、環境が変わる中で、均一化と多様性のバランスをどこに見出すのかが重要だと思っています。

普通の人でいることと、身を守ること

少し話が逸れました。
ここからは少し視点を変えて、「結局、舞台『未婚の女』ってなんだったんだろう」というところから、三人の女たちについて感想を書いていきます。

もしも服があったならなぁ!

劇中の台詞より

劇中で脱走兵とマリア、二人の人物が同じ台詞を発します。
ぼくはこの台詞が舞台『未婚の女』の本質的な台詞だと捉えていて、「普通の人々でいたかった」という願い、後悔、無念といった儘ならなさが詰まった台詞だったと思います。

こちらはある映画[4]を観たときの感想ではあるのですが、今回も同じような感想を抱きました。何か一つでも普通でないと思うことがあって、それを引け目に感じていたら、普通でいたいと願う気持ちはとても理解できます。

ところで、皆さんは2022年春頃に海外で話題になった「I Support The Current Thing」というミームをご存知でしょうか。日本だとあまり見かけなかったのと、ぼく自身Off Topicというpodcastで知ったミームではあるので、Off Topicさんのブログ[5] から引用させて頂きます。

カレント・シングスとは、注目を集めているトピックについて人々が意見を語る際に、意見が集団化することによって、その話題を支持することが一般的になった状況を揶揄するものだ。意見を語る人々も、実際にはそこまで話題に詳しくなかったり、現実にはサポートしてないかもしれないが、「とりあえず自分を意思表示をしないといけない」と思うことそのものを皮肉っている。

カレント・シングス化した話題は、その本質を見誤らせたり、支持層が厚くなることで時代における「正解」のように扱われたりするために注意を払わなくてはならない。この動きはインターネットのエコシステムによって、より顕著になってきてもいる。

[5]より引用

「とりあえずの意思表示」がその本質に依らず「正解」のように扱われることに加えて、podcast中では「その集団の中でよりそのトピックを支持していくために、より過激な言動をするようになる」という現象についても言及されています[6]。

ほんの一年半ほど前にこういったことが話題になるくらいに1945年当時と現代が似通っていて、冒頭で述べた過去と現代の重ね合わせなのだなと思い知らされるミームでもありますし、マリアが脱走兵を密告した状況と大きく重なっているように思えました。ぼくは、マリアが脱走兵を密告した本質的な理由は、その集団に属していることを主張し、普通の人々でいるためだったと考えています。このような均一化と、その集団でいることの行き過ぎた行動証明こそが、法廷で脱走兵を殺した理由として挙げられる「愛国心」の正体だったのではないでしょうか。

その集団に属していて、その考えに背いていないと、自らが善であることを示すために、他の誰かを犠牲にすることの是非は善悪という定規では測れない、とても難しい問題です。まおゆうの世界ではこの判断が「人間のもの」として肯定される演説シーンがあります。

この狭く、冷たい世界の中で、家族を守り、自分を守るために、石を投げることが必要なこともあるでしょう。
私は、それを責めたりしない!
その判断の自由も、また、人間のもの。
その人の心が流す血と同じだけの血を、私は、この身を以って流しましょう。

[7]より引用

しかし、マリアの現実はそうではなく、自らがその集団にとっての善であるという正しさを武器に脱走兵を密告した結果、森の中で自称警察官の人たちに逮捕され、一夜にして善悪が反転した世界で裁かれるのです。「もしも服があったならなぁ!」がどうしようもなく虚しく響き、普通の人々でいたかっただけなのにという悲痛さを感じました。

イングリッドが求めた「普通」

イングリッドが手斧を持って登場するシーンでは、父アガメムノンを殺された復讐から母殺しの復讐を果たす存在であるエレクトラになることを高々に宣言します。台本の意図としては母親マリアへの復讐だったのかもしれませんが、舞台上でマリアに「ウーリ」と孫の名前を呼ばれ、悔しさに顔をゆがめるイングリッドの演技に、本当は母と和解したかったのではないかと思わされました。

二年ほど前、ぼくの祖母が他界しました。マリアよりも症状がひどく、ぼくが最後に会ったときにはもう家族のことがわからないような状態だったのですが、それでも最後にぼくの名前を呼んでくれました。ぼくは自分の名前を呼んでもらえた側になれましたが、言ってもらえなかったイングリッドはどんな気持ちだったんでしょう。ぼくもあのとき言ってもらえなかったらと思うと、イングリッドの心に溜まったものが溢れてしまい、手斧を持ち出したイングリッドの気持ちが少しだけわかる気がします。

イングリッドはモノローグで、一人ぼっちである自身を「まるで樹から落ちた腐った果実」と表現しています。
劇中では何度か四姉妹によって「りんごの収穫」が登場します。樹に実ったりんごはナチスの家族政策で産まされた子どもたちのメタファだと考えられますが、そんな政策で生まれた子どもであっても、ほとんどの人は「普通の人々」として生きていたのでしょう。でも樹から落ち普通の人々になれなかったイングリッドはそうではなかった。腐った果実に救いはなく、母にも名前を呼んでもらえなかったイングリッドは、手斧で樹を切り落とすことで政策の否定し、樹を焼き尽くすことで普通の人々を否定する復讐に走るしかなかったのだと思います。

独居房のシーンでまわりの囚人は寝たふりをして、傍観者、つまりは普通の人々でいます。イングリッドにとって、寝ることは普通の人々になることだったのではないでしょうか。薬は「ベッドに入ってから」という発言から薬が睡眠薬であったことが伺い知れますし、薬が効かなかったというマリアに対して「ちゃんと効いたでしょう!?」と激昂する様は、普通の人々になることを否定されたことに対するものだったように思えます。そう思うと、イングリッドが最後にベッドで眠って橋掛りを渡ったのも、救いを求めて睡眠薬を過剰摂取したためだったのだと思います。

ウルリケの最後

ここまでマリア視点で、過去と現代が重なり合うことを書いてきました。最後にウルリケ視点での重なりをみて、最後の暴力シーンを解釈したいと思います。
暴力シーンのきっかけはウルリケが撮り溜めた数百枚の男性の全裸写真です。まるで身体を重ねた男をコレクションするかのように写真を撮るウルリケ。そんな秘密が入っているウルリケのスマホは、マリアにとってのノートなのでしょう。マリアが密告した脱走兵の父が「私の手とは全然似てないでしょう」と語る息子の美しい手と、暴力的な男に対する美しい手。その重なりから、最後のシャッター音は脱走兵の告発と同じ意味があり、暴力的な男を正当防衛という大義名分の下、命を奪ったのだと思いました。

終わりに

こうして改めて舞台『未婚の女』に向き合うと、あまりに救いがないですね。そんな救いのなさを前に、舞台や芸事をバックグラウンドに持たないぼくは今、「考え続けなくてはいけない」「考えさせられる舞台だった」なんて言葉でブログを締めようとしています。ぼくの中にはたしかに、そんな安易な結論に飛びついて、言葉を探すつらさ、苦しみから逃れたい、そんな弱い心が存在するのです。そう。言語化は苦しいのです。このブログを書くにあたっても、歴史的にも知らないことがたくさんあってそれを言葉に残すこと、ふんわりとは思ったり感じたりしているけどその正体を言葉にして明確にして自分と向き合うこと、そういったものにとても苦しみました。でもこうして一つ文章を残すことができました。こうして残したものが少しでも、五日間でぼくが大好きな人が、あの熱量で届けてくれた表現に報いることはできたら嬉しいです。また次の舞台でお会いできる日を楽しみにして。

参考文献

  • [1] 広野由美子. 批評理論入門:『フランケンシュタイン』 解剖講義. (No Title), 2005.

  • [2] ナショナリズムは全体主義ではない - 未唯への手紙, 2023/10/29アクセス, https://blog.goo.ne.jp/tgalmoh/e/db8f15d565cec59b8c7f0e99dfccdc9d

  • [3] 小野寺 拓也, 田野 大輔. 検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?, 岩波書店, 2023.

  • [4] 増井壮一(監督), 鴨志田一(原作), 青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない, 2023.

  • [5] 議論する前に心得ておきたい「シンキング・ラダー」という概念【Off Topic Ep118】|Off Topic - オフトピック, 2023/10/29アクセス https://note.com/offtopic/n/nf6011ba6517e 

  • [6] #117 「カレント・シングス」の心理 - Off Topic // オフトピック | Podcast on Spotify https://open.spotify.com/episode/0uiUegqzOSjqYwOfqYUi2k 

  • [7] 高橋丈夫(監督), 橙乃ままれ(原作), まおゆう魔王勇者, 2013.

  • [8] エレクトラとオレステス、父アガメムノンの復讐、母親殺しの悲劇 - waqwaq, 2023/10/29アクセス https://waqwaq-j.com/greece/2139/ 

  • [9] 対馬達雄. ヒトラーの脱走兵: 裏切りか抵抗か, ドイツ最後のタブー. (No Title), 2020.

  • [10] 水野博子. "戦後初期オーストリアにおける 「アムネスティー (恩赦・忘却) 政策」 の展開." 東欧史研究 24 (2002): 3-26.


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