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宮藤官九郎を見てると、やっぱり面影ラッキーホール(Only Love Hurts)を思い出す訳ですよ

 この前から地上波放送が始まった「季節のない街」、これって山本周五郎の貧民街を舞台にした小説が原作らしいけど、脚本化するプロセスでやっぱりクドカンの解釈が当然入り込む訳じゃないですか。
 貧民街に暮らす人々への解釈が入り込む訳じゃないですか。彼らの気持ちを理解し、行動を描写し、登場人物として戯画化するこころみが。
 過去にそれを歌でやっていたのが、面影ラッキーホール(改名後はOnly Love Hurts)なんですよ。

 「好きな男の名前腕にコンパスの針で書いた」「あんなに反対してたお義父さんにビールを注がれて」「俺のせいで甲子園に行けなかった」
 メジャーデビュー盤『代理母』冒頭3曲の長タイトル曲揃い踏みにも明らかなように、面影はいつも弱い者のことを歌っていた。その次のアルバム『音楽ぎらい』まではまだメジャーの衣を纏っていたが、『Whydunit?』でちょっと様相が変わってより生々しくなった。具体的には性に対して。

 このアルバムの冒頭3曲は「あの男(ひと)は量が多かった」「いっちまったら」「私が車椅子になっても」。濃度の違いをおわかりいただけるかと思う。
 「私が車椅子になっても」はスゴかった。「俺」のハニーが交通事故に遭って下半身麻痺の車椅子になっちゃう。そこで「俺」が医師に尋ねたのは「先生、あのその、確認したいのは、正直なところ、性生活は可能ですか?」たまんねえ。この2曲あとに入ってる「パチンコやってる間に生まれて間もない娘を車の中で死なせた…夏」もスゲエ。

 そうして面影はどんどん加速していく。アルバム『typical affair』では「ゴムまり」が耳を覆うような児童虐待の歌。その後の『on the border』では「おかあさんといっしょう」「制服で待っていて」と、地獄の児童性虐待ソングメドレー。

 そんな面影を「つらいなあ…」と思いながらも、矛盾するようだが、いつもわりと楽しく聴いている。ファンク・ソウル・R&Bベースのカラッとしつつもエモーショナルなサウンド、それに乗るACKYの計算され尽くしたヴォーカルワークは素晴らしい。それに彼らの歌には何処か可笑しみがあるからだ。

 『on the border』の構成は素晴らしかった。1曲目は「寝取られたい ある晩思った 下の毛に白いもの見つけた日から」という歌詞から始まる、中年男の寝取られ願望を歌った「コモエスタNTR」。タイトル通りの明るいラテン調で、私もよくクルマの中で「コモエスタ昔の彼氏、コモエスタNTR!コモエスタ娘の担任〜、デルコレソン!」といっしょにがなっている。
 そしてこのアルバムの最終曲が「レス春秋」、セックスレス夫婦の妻目線で歌ったしっとりと切ない歌ものなのだが、凄いのがイントロが「コモエスタNTR」のリフと同じなのである。コモエスタ〜は明るいアップテンポの4拍子、レス〜はしっとりとした6拍子にアレンジされていて、その違いが、中年になってもハッスルしてる夫と、家族になったらできなくなった妻との永遠の距離を感じて、切ない。
 そして滑稽。

 しかしあまりにアクが強いせいだろう、このバンドを知る人は少ない。私も自信を持って他人様におすすめできない。あまりに人間の弱いとこ突いて来過ぎる。悪趣味なほどに。

 そこで思うのだ、これは実はクドカンとやってること同じでは?と。

 『季節のない街』1話に出てきた部屋一面にヌードポスター貼りまくってるオッサン(兄ちゃんか?)。六ちゃんの騒ぎで警察がやって来て、無事落着して帰っていってからようやくヤサから出てくる。そうして新入りの新助に聞く「オレのこと聞かれなかったか?」新助が無言でいると「お前ら、余計なこと喋ってねえだろうなー!」と周囲に叫ぶ。もう野次馬も引っ込んじまって誰も居ないのに。

 戯画化された弱い人。弱い人の戯画化。そこには理解しようというこころみが潜んでいる。
 それなのにどうしてクドカンは万人に受け入れられて、面影は受け付けられないのかなあ、と思う。
 面影がドギツイだけだって?そりゃごもっとも




 



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