ことばのすきま風

「全てを言語化できるわけじゃない」と、デザイナーやアーティストはよく言う。わたしも、そう思う。書いて伝える仕事をしているけれど、作品やアイデアのすべてを言葉にできるなんて、そんなおこがましいこと、考えたこともない。

そもそも、多くの形状や色に理由があるのは、そこに理由が必要だと、デザイナーが考えるからだ。それが正しいことなのか、幸せなことなのか、わたしにはわからない。

ことばにするために、世の中のものは生まれなくてもよいはずなのに。それでもわたしたち記者は、その理由を、よろこんで言葉に定着する。呪いのような、循環かもしれない。

インタビューのとき、相手が言いよどむと、
「無理に、ことばにしないでください」
ということがある。

人は、自分でも気づかないうちに、うまく自分を納得させることばを、探してしまう。自分の質問のせいで、そんな足かせをはめたくない。ことばにしないで、そのままにしておいた方がいい部分は、たくさんある。「ここは、ことばにできない部分だ」とはっきり書きたい。

でも、ことばは、便利だ。
世界を分割して、みんなで共有するための工夫で、
君とわたしの頭のなかを交換できる、数少ない道具で、
人々の感情を操作する、目に見えない武器だ。

でもまだ、ことばが与えられていないものは、たくさんある。その、すきまのような場所を言い表すものを、わたしはいつも探している。そしてときに、思い切りあきらめる。

普遍と、凡庸
単純と、シンプル
華美なもの、派手なもの
癖になるもの、飽きがくるもの
「また会ったね」と、「久しぶり」
深夜と、明け方
友達と、恋人

探せばきりがないすきまを、ひゅーひゅーと風が通り抜ける。毎日毎日書き続けては、風の通り抜ける空間を見つけ、そして、ただその存在を確かめる。いつかそのすきまを、適切に埋めることができるのか。それとも、誰かがすでに、見つけているのか。

がんばって生きます。