喫茶店の味噌汁

事務所から遠くないオーセンティックな喫茶店のメニューをみたら、お酒の名前の並びに「ハンバーグ定食」と書いてあったので、一人で入ってみた。「食事だけでもよいですか」と聞いてみたら、快く通してくれた。

テーブルにはガラスの灰皿が1つずつ置かれている。年の離れた男女が先客にいて、初老の男性はタバコを吸いながら、ウイスキーらしきものを飲んでいた。女性に煙がかからないように、灰皿を椅子に降ろして、顔を傾けながら小声で話している。少し経って「お会計お願いします」と立ち上がった女性は、驚くほどスタイルがよく長身だった。どんな関係なのかは、全く想像がつかなかったけれど、正直なところそんなに興味もなかった。予定どおり、ハンバーグ定食を注文した。

「野心はないのに貪欲だよね」

先日呼んでもらった飲み会で、久しぶりに会った恩師の一言を思い出していた。野心ってなんだっけとあらためて辞書を引いたら、「大きな望み・たくらみ」とある。なるほど、たしかにそんな大層なものは持ち合わせてない。

「夢はなんですか?」という質問に、わたしだってできるなら答えたい。スラスラ答えられる友人もたくさん知っている。仕事でいえば「独立して自分のブランドを持ちたい」とか「こういう企業とコラボレーションしたい」とか、そういうことだ。数年~10年後くらいの現実的で、文字通り夢のあるプランを描ける彼らがまぶしい。尊敬する。うらやましい。

その代わりに「貪欲」というのはよくわかる。わたしは欲深い。毎日おいしいものを食べたいし、眠りの環境にはうるさい。そして、空腹な好奇心を満たしたい。新しいことを知りたい。見たことないものを見たい。行ったことのない場所に行きたい。会ったことのない人に会いたい。好きな人と一緒にいたい。そう、これが一番やっかいだ。

「夢はなんですか?」という質問に答えられないのは、あまりに場当たり的に人に流されて生きてきたからだろう。それはもう、好きな人たちに振り回されてきた。言われたことを鵜呑みにして、勧められたら試してみて、誘われたら断れず、今に至る。これは、恋愛も友人も恩師も関係ない。好きな人と会話したり仕事したり、とにかく一緒に生きるために、様々なコンテンツを摂取してきた。

わたしを構成しているのは、情けない片思いなのだ。そしてこの片思いのハードルが低すぎるおかげで、むやみやたらに色々なことに興味をもってきた。どんなものも、つまらないと感じたことがほとんどないのも幸運だった。好きな人が好きなものは好き。単純なことだ。あらためて情けないけれど、こればかりは仕方ない。

わたしは今日も、たくさんの片思いを続けている。そしてその裏にある、できたらちょっとでも、わたしのことも好きになってください…という気持ちは、あまりに強欲だと思う。こんな恥ずかしい感情を抱えて、野心も夢も思いつかないままに、これから先も生きていくのかなとげんなりするけれど、おかげで毎日に暇しない。

電子レンジの「チン」という音がした。少しして、目の前に定食が用意された。ハンバーグの付け合せのニンジンは、答え合わせのように冷凍食品の触感があったけれど、豆腐の大きい、ちょっと味の濃い味噌汁は手作りの味がした。今度はお酒も頼んでみよう。友人も誘って、来てみようかな。

がんばって生きます。