右手の薬指の指輪

少し前のことだけれども、夫が結婚指輪をなくした。悲痛な声で謝られたけれども、案外なにも思わなかった。有り体にいえば、モノはモノでしかない。

しかし、わたしの手元に残った片割れは、所在無げな、ただの指輪になってしまった。対で存在することで、ようやく意味が生まれていたのを、それで初めて知った。案外、ナットとボルトのような関係だったのだ。

その指輪は、左手の薬指以外にするには、あまりに野暮ったい。すきな色と形を選んだはずなのに、あまりに結婚指輪らしすぎた。どうしたものだろう。

少し違う話だけれども、「離婚式」がはやっているらしい。

いつかの日のパーティのように友人たちを集めて、宴会をし、そして最後に、指輪を二人で割るのだそうだ。聞いた話で、きちんと調べたわけでもないから、そんなものがあるのかないのかもわからないけれど、「指輪」は現代でも、夫婦のつながりの象徴らしい。

話を戻すと、一生懸命探したかいもなく、夫がなくした指輪は見つからなかった。せっかくだからと、新しいものを購入することにした。なぜかわたしのも、買うことになった。

今度は、まったく結婚指輪に見えないものにした。独立した存在として成り立つもの。そして、いま一番ほしいと思うもの。

別れるときのことを、考えているのではない。そんなつまらない片割れ感を、指輪なんかで表さなくてもいいんじゃないかな、と思ったのだ。

わたしたちは夫婦だけど、パートナー同士だけど、そんなことを、モノで証明したくはない。ラブラブだよ、みたいな話でもない。結局わたしたちは、相変わらずひとりとひとりなのだ。愛だとか恋だとか、そういうのとは関係なく、ありきたりの孤独を後生大事に抱えている。それでいいと思っている。

新しい指輪は気に入っていて、だいたい毎日、左手の薬指につけている。結婚指輪に全然見えないから、ときどき人に不思議がられる。薄い金属の板を、ただくるっと筒にしたような見た目。

そして実は、前の指輪は右手につけている。野暮ったくはあるけれど、それもそれでよいことにした。ついでに、学生時代にもらったのも、またつけ始めた。歴史が重なっていく感じは、悪くない。増えすぎても、困るけれどね。

#エッセイ

がんばって生きます。