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日本記者クラブ記者会見 アメリカ訪問を終えて 昭和天皇・香淳皇后両陛下 1975年10月31日・皇居「石橋の間」

昭和天皇・香淳皇后両陛下 | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)

敗戦時の #昭和天皇 は、十分に分別ある大人(44歳)ではあるが決して老人ではない。

一着の背広をとことん着古すまで愛用し、ちょっぴり猫背で老人の様に歩き、帽子をひょいと持ち上げ「あ、そう」と不器用に返答する敗戦後の巡幸姿からは、到底極悪非道な戦争犯罪人を想起し難いが、敗戦必至たるを百も承知しながら、我が身の処遇に拘泥し #ポツダム宣言 受諾を渋り遂には #原爆投下 を招いた罪は万死に値する。

戦争遂行に主導的役割を果たしたとは云えぬまでも、決して薄ぼんやりした好々爺などでないこともまた確かなのである。

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昭和天皇は最初期こそ慎重論を唱えているが、華々しい戦果を追認するうちに、いつの間にか抜き差しならぬ泥沼にはまった挙句、打開策として大博打を打つに至るが、ここでも最初の奇襲作戦成功を過大に評価した結果、あまりにも無謀な戦域拡大を招き、杜撰な兵站計画とも相俟って徐々に戦局悪化の一途をたどり始めると、今度は「お前達が大丈夫と言っておきながらこの有様はどうしたことか」「じりじり退いてばかりではないか」「一度位ぴしゃりと強く叩けないのか」と怒り出し、強硬論を述べるようになる。

最終的には「特攻は航空機だけなのか」とまで言うようになる。

昭和天皇の戦争「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと #山田朗
https://www.iwanami.co.jp/book/b279033.html

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勝ち目がないと知りながら、愚劣で気味の悪い冗談の様な数々の #特攻作戦 に命を捧げ最期の最期まで天皇に忠誠を貫く臣下がいることを見せつけ、結果的に敗北した場合でも、なるべく戦勝国側(米国)に #天皇裕仁 の処遇を寛大なものにさせようという卑劣極まりない心根の腐った外道君主である。

しかし、特攻作戦の効果ではなく、己の名(昭和天皇)において植民地支配した隣国に勃発した戦争( #朝鮮戦争 )を破廉恥にも天祐、僥倖と呼び、祖国(日本)を属国として米国へ差し出すことで、のうのうと生き永らえた挙句の果てに、嘗て鬼畜と呼んで殲滅せよと命令した米国を訪れて帰国した際に臨んだ記者会見にて、以下の様に答えた。


日本記者クラブ会見リポート
アメリカ訪問を終えて


日本記者クラブ記者会見 アメリカ訪問を終えて 昭和天皇・香淳皇后両陛下 1975年10月31日・皇居「石橋の間」

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。 また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。
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#日本国民 をこれほど馬鹿にした話はありません。

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