【自伝】中途半端さを受け入れるための歩み

大学2年生の私は、現在東大のデザインサークルと合気道サークルと宇宙のサークルの三つを掛け持ちしており、このnoteはデザインサークルのアドベントカレンダー企画の一環として書いたものです。

本noteでは帰国子女の自分がいかに何もできない人間だったか、それを乗り越えるためにどういう努力をしたかを物語口調で綴っていきます。

最初にお断りしておきますが、これから書く内容は多分に自虐、自傷、自嘲といった、本音に限りなく近いものを露呈させてしまっている内容であり、読んだ人間までも不快な気持ちにさせてしまう可能性を孕んでおります。私としてはそれらに対して一切の責任を負うことはできない、いやむしろ「これが俺だ。文句あるか。」という心持ちで書かせていただくので、どうぞよろしくお願いします。

1.中途半端さの自覚

自分は何をやらせても中途半端な人間だ。僕がそう悟ったのは、誰にでもある普通の中三の六月であった。

中学三年生の六月は、僕が中学バスケ部を引退した月である。黒子のバスケに憧れて、当初入っていた理科学部を辞めて途中入部したので、都合1年7ヶ月しか在籍していない。中学2年生にして身長170cmあり、転部自体相当珍しく、さらにはアメリカ帰りというのもあり、顧問もよほど熱意と才能のある生徒なんじゃないかと期待してくださっていたことだろう。

しかし、僕は見事に期待を裏切った。持病の喘息もあったとはいえ、断続的な両手首の故障によりすっかり意欲を無くした私は、せっかく入った部活を色々な口実をつけてサボり始める。体幹が弱くジャンプ力もなかったため、顧問につけられたあだ名は「飛べない巨人」。結局、最後までユニフォームをもらえないまま六月の引退式を迎えることになった。


部活の引退式が終わり、大して何も達成していない私は謎の達成感に包まれたまま帰路に着いた。普段は歩かない道を歩き、変な路地に迷い込み、知らない家の飼い犬に吠えられ、しかしいたって上機嫌なまま帰宅した。

家に着くと、バスケをやる上で購入した製品を全て片付ける作業に入った。一丁前に裏がベロンベロンに剥がれたバッシュを捨て、バスケットボールは棚の上の少年サッカーでもらったトロフィーの横に飾り、ユニフォームは畳んで棚にしまい、使い終わった制汗剤はキリで穴を開けて玄関に置いた。

一段と広くなった部屋を見ると、自分はそれまでの2年2ヶ月間何をしてきたんだろうかとふと思った。バスケは言わずもがな、学業面でも入学時は特待まであと2点という中途半端に良い成績だったものの、モンスターを狩るのに夢中になり、2年生に上がる頃には見事な深海魚になってしまった。クラス分けが成績順で行われる中学校だったので、元いたクラスの人に廊下で会っては「やーい都落ち」と馬鹿にされており、悔しい思いをしていた。

学業も部活も中途半端。俺は一体なんなんだろうと悲しい気持ちになった。

思えば、昔からなにもかも中途半端にやってきた。

親にやりたい!って駄々をこねて始めた野球もサッカーもそんな熱が入らなくて途中でやめたし、書道はまじめにやってるのにも関わらず、毎回一人で居残りさせられるほどの酷さだった。持病の喘息を改善するため始めた水泳も、持病を言い訳に黒帽子(一番良い)をもらえる手前でやめてしまった。夏休みに意気込んで始めた一日一冊読書計画も、読書が嫌いで二日で頓挫した。小学校の授業でなんとなく始めたトロンボーンも一年やってみたはいいが、トロンボーンはスライドの位置のみで音程が決まる楽器だというということを知ってからは、楽譜に直接スライド位置の番号を書き込んでしまい、結局最後まで楽譜が読めるようにすらならなかった。

2.海外留学という貴重な体験

そんな小学生ながらダメダメであった僕だが、小学二年生の時に僕の人生の転換点を迎える。父親の仕事の都合でアメリカに行くことが決まったのだ。

ところで、実は帰国子女なんだよと言うと大抵の人には「英語勉強しなくてよいのいいなあ」と言われることが多いが、それは全くの表層的な感想であると言わせていただきたい。少なくとも僕にとってはデメリットの方が遥かに大きかった。
小2の6月という漢字すら覚束ない状態で、英語も”This dog is cute"程度しか言えない状態で、周りに家族以外の日本人が全くいない環境へと身を投じることになるとは一体どういうことか、想像してみたことはあるだろうか。人種差別も全くないわけではなく、言語の壁と内向的な性格により友達ができず、かといって読書嫌いが祟り本の世界へ逃避することも叶わず、最初の一年はただただ孤独と向き合っていた。よく耐えられたものだなと、自分を褒めてあげたい。テレビも英語だからと自分に言い訳して見ておらず、ゲームも取り上げられていて、自分は何をして過ごしていたのだろうか。思い出せないというのは、嫌な記憶が全て抑圧されたのか、はたまた単に6年間一緒の学び舎で過ごす、記憶の共有のできる相手がおらず、アメリカでの私の記憶がエビングハウス忘却曲線に任せて失われていくばかりだったからなのか。今としては真相はわからないが、少なくとも言えるのは、一年目がそんな調子だったもんだから、二年目、三年目と経て英語がだんだん上達してきても、その頃にはもう人付き合いの方法がわからなくなっていたということだ。僕には味方がいなかった。家族とは話せていたでしょ?というけど、兄二人は僕のわからない話題でずっと盛り上がっていたし、父親は休日以外顔を合わせなかったし、母親はずっと自分専用に買ったパソコンで日本人コミュニティでできたママ友と電話したりメール送りあったりしていて、僕に構う人は家の中にもいなかった。周りは英語で溢れ、帰属感というものが何もない状況が続いていた。こうして、人によってはよりよい人生への転換点となりうる海外留学という体験は、僕の人生に大きく尾を引くことになる。

3.帰国してから中学受験まで

サンフランシスコで長い三年を過ごし、小学校五年生レベルの英語力を身につけ小学校二年生レベルの日本語力を維持していた僕は、ようやく帰国する。そこからも地獄だった。ようやく日本に帰って来られた、もう英語や人間関係で悩まなくていいんだと喜んだのもつかの間、いざ日本の小学校で友達を作ろうとしても何故か周りと話が全く通じなかった。使っている言語は同じはずなのに、どうにも相手が何いっているのかわからない。話題もどうやら芸能人やらポケモンやらで僕の知らないものばかりであったし、会話が噛み合わず全く続かない。そもそも日本語が聞き取れないことも多いのだ。先生の授業での指示も理解できないし、「後でショクインシツに来い」って言われても小学校二年生レベルの語彙ではショクインシツが一体何なのか、どこにあるのかもわからないし、自分が意外と日本語理解できていないんだと状況認識するだけの知性やそう釈明するための日本語力を持ち合わせていなかった。そのままショクインシツへ顔を出さなかったことで怒られ、さらに嫌われるという悪循環が発生していた。担任の先生から「私含め学年付きの先生4人のうち3人に嫌われてるよ」と三者面談で直々に告げられた小学生は僕ぐらいであろう。わけもわからず先生に怒られ、周りの人間には価値観が合わなすぎで奇異の目で見られ、いじめられるんじゃないとビクビクし続ける散々な小学校高学年を過ごしていた。何がこういう軋轢を生み出しているのか原因が特定できなかった当時は、もう地元では円滑な人間関係は構築できないと悟り、地元から離れた私立中学の受験を志すようになった。

中学受験を志してみたはいいものの、日本語が聞き取れているわけでもなく、実は視力が悪くてホワイトボードの字がなんも読めていないのにメガネを作るという発想を持っておらず(学校で先生の指示を追うのに苦労していたのもメガネを持っていなかったからかもしれない)、学習はかなり遅れていた。そもそもアメリカに3年間いて日本の教育を受けていないのに、日本史やらなんやらをいきなり受験レベルでやらされるのは少し無理があることなのだ。それでも自分なりに地元から逃げたいという動機を持ってやっていたので、メキメキと成績は伸び、小学校六年生の12月には開成中学の特訓コースに滑り込むことができた。滑り込んでみたはいいものの、すでに周りとは圧倒的な力の差がついており、勉強するやる気を失ってしまった。ここが僕の悪いところである。そのやる気のなさを象徴するような出来事が、入試直前の正月特訓という特別講習中に起きる。

W田アカデミーは小学生のやる気を集団催眠的に引き出し、そのポテンシャルをも最大限に引き出す指導法により進学実績を伸ばす学習塾なのであるが、正月特訓もその指導の一環として行われていた。それは、正月という「普通の小学生なら休んでいるはず」の時期に、「普通の小学生には入る機会すらないであろう」池袋のホテルメトロポリタンという場所で「正月直前特訓」を行うことで、小学生の集中力を引き出し、入試に向けての適度な緊張感を演出するという悪魔的(そして効果的)な手法である。しかし、そこまでお膳立てされていても、やる気がなければ集中力は持たないのは自明の理である。おおよそ察しはついているだろうが、そう、僕は入試直前の過去問の解説の時間で、あろうことか寝てしまったのだ。正六角柱の断面図の問題を解説していた算数の先生に、「れつくん。僕は君の室長直々に『よろしく頼む』って言伝をもらったんだが、そこまで目をかけてくれてる室長に申し訳ないとは思わないのか。」と言われた。僕は100人近くの小学生の中で、ただ一人名指しで怒られた。こんなしょうもない小学生の時の思い出だが、今でも冷や汗とともに鮮明に思い出せる。この出来事はなんなら周りの小学生にとっても肝の冷える出来事であったようで、大学の二年生の春学期に開講されていたバレーの授業でたまたま会った人に、「君もしかしてあの時怒られていた人?」って声をかけられた程である。多少脱線したが、とにかく僕は確固たる意志を持って受験に臨んでいたにも関わらず、その学習態度はやはり中途半端なものであったというわけである。案の定、開成中学校は不合格になり、帰国子女向けの特別授業のあった栄東中学校に進学することになる。(余談だが、この年のW田アカデミーの開成中学校の合格者数は過去最高の70名なので、特訓コースから不合格になったのは僕を含めて30名しかいなかったことになる。)

4.中途半端さの克服

以上の来歴を振り返った中学校三年生当時のバスケ部引退式直後の私は、この中途半端さの連鎖を断ち切ることを心に決めた。自分が最も得意としていたはずのものにちゃんと向き合おうと心に決めたわけだ。それは、いかにも東大生という感じだが、もちろん勉強である。もう成績が上のクラスの人たちからバカにされたくない、勝手にその人達に対して劣等感を感じたくない、自分の中途半端さを克服したい、胸張っていられる自分でいたい。そんな思いを、決意を、克己心を胸に、僕は勉強を始めた。僕は本気だった。かつてないぐらい本気だった。それまで蓄積してきた赤だらけの定期テストや小テストは燃やし、ノートを全て新しいものに買い換えた。塾の自習室は毎日午後10時まで残って勉強するという誓いを立て、苦手科目を1つ残さず潰そうという覚悟を決め、水風呂で禊をした。こうして周りの人の何倍も真面目に勉強に取り組み始めた。

勉強は、すればするほどメキメキ成績が上がって、いかに自分が勉強していなかったかが思い知らされる。それと同時に、勉強の楽しさなどというものが次第に芽生え始める。東京御三家と比べてレベルの低い中高一貫校というのもあったが、校外模試で中二の終わりに学年300人いる中で(英語バフがあるのにも関わらず)下から数えて15位ぐらいであった僕の成績は、平日5時間休日12時間勉強した甲斐もあり、中三の終わりには数学7位、英語1位、国語150位となり、3教科トータルで学年5位にまで上り詰めた。その後、人間関係でも学業面でもいろんな苦しみがあったとはいえ、3年間多かれ少なかれそのままの成績を維持し、憧れであった東京大学についぞ入学できた。まあ、今現在僕の周りにいる、特に覚悟を決めなくても勉強ができる優秀な人にとっては、僕のこの合格体験もどきはなんともしょうもない話に思えるかもしれないが、大して頭もよくない(と思い込んでいた)僕にとって、今自分のいる大学に入ることはそれだけ格別な意味があったんだと、そう言いたいわけである。このようにして、僕は自分の中の中途半端さの連鎖をようやく断ち切った。と思った。

さて、話は中三当時に戻るが、中途半端さを克服するための努力をしている最中、己には中途半端さに加えもう一つ属性があることに気づいた。それは、マージナルさである。中三当時は第一次ボーカロイドブームがとっくの昔に過ぎ去っており、世間はロストワンの号哭やらカゲロウプロジェクトやらが陰ながら流行っていた時代である。そんな中で、中三ながら甚だしい懐古厨っぷりを発揮していた僕は、初音ミク-Project DIVA-2ndに収録されていたyellow、Just be friends、初めての恋が終わる時、magnet、ロミオとシンデレラなどといった曲を勉強中延々と聞いていた。ある日、収録曲の中でどうもメロディが特段好きなわけでもないのについ聞きたくなってしまう曲があることに気づいた。それこそがMarginalという曲で、その歌詞に妙に心を惹かれた。調べてみるとマージナルとは境界に近いさまを指すようだが、直訳そのままだといまいち曲名に込められたアーティストの意図が読めない。そこで、関連項目にあったマージナルマンという単語を見てみる。すると、辞書にはこう書かれていた。

文化の異なる複数の集団に属し、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団の境界にいる人。境界人。周辺人。

中三当時の僕は、ここまで僕を表すのに適した表現があったのか、と思った。アメリカと日本という異なる文化圏に属し、そのいずれにも完全には属することができず、それぞれの集団の境界にいる人。どちらにも帰属したいとは思いながら、そのどちらともうまくいかなかった人。まさしく僕のことじゃないか。さらに調べてみると、マージナルマンはその「周辺人」という意味合いから、「たいしたことのないやつ」という意味が含意されているようだ。なるほど。何もかも中途半端にやってきた自分以上に「マージナル」を名乗るのにふさわしい人間はいるのだろうか、いやいない。自分こそがマージナルマンだと僕は確信した。このような気づきを得た僕は、この瞬間あらゆるSNSのアカウント名をマージナルに変えたのであった。しかし、これは断じてマージナルであることを甘んじて受け入れるためではない。自分の中にある中途半端さを克服したい。何者かになりたい。Marginalなアイデンティティをひっくり返し、lanigraMに変えてやりたい。そういう克己心ゆえに、まず手始めに周りの人間に——世界に——自分はマージナルであると宣言したのであった。

当初の目論見通り事が運んだように思われた。中途半端さを克服することと同時並行に、僕は自分のマージナルさを克服するための修行を行っていたのだ。それは自分の中にある「アメリカ性」なるものを意識し、異端とし、追放し、「日本人」としての完全なる文化的な帰化を行おうという試みであった。その帰化のためにはその文化の人と問題なく会話できなければならないし、その文化の人の興味を尊重しなければいけないし、価値観を擦り合わせていかなければならない。具体的に僕が何をしたかというと、学校でまだ話したことない人とSNSを通じて積極的に話しかけたりしてみたり、読書(特に重松清や伊集院光など、『日本人の空気の読み方』を描写するのが上手い人の著作)を多めにすることで、まだ異邦のものとして感じられた日本人の価値観を心で理解できるように努めた。他にも、日本文化に完璧に帰属するためにあらゆることをした。その過程で人間関係で多種多様なトラブルを引き起こしてしまい、受験で頭が一杯だった僕はそれに対して真摯に応えることができておらず、多くの人を不快にしてきたと思うが、その代わりに高校を卒業する頃には、自分の言動に対し誰かから変な顔をされるということがなくなった。独り言もしなくなったし、箸も綺麗に持てるようになった。自己主張を控えめにし、人の目を見て話を聞き、愛想笑いで人に嫌われにくくする術も身につけた。直していく過程でいじめられないように、変態行動をしたりしてピエロを演じ、裏ではコソコソと自分の中の周りとのズレを消していった。僕は、小学校高学年の2年間と、中高6年間を犠牲にし、うまく日本人として擬態することに成功したと思えた。「帰国子女なんだね」と言われた時の自分の反応も大学入学前後で変わったという自覚がある。中高までは自分が帰国子女である事実は自分の生きづらさと親がたまたま優秀で海外で働くことができたことの証明にしかならなかったが、東大に合格してからは多様な経験と(アメリカ帰りの帰国子女は理系科目の成績が悪くなりがちであるため)自分が数学を得意にするために鬼気迫る努力をしたことの何よりの証左だと思うようになり、誇りを持って人に言えるようになった。まとめると、僕は東大に合格することで中途半端さを克服し、アメリカかぶれの自分を捨て去ることでマージナルさを克服したのであった。

5.自分を、大学生活を見つめ直してみた

さて、散々中途半端さ、マージナルさを克服したと言ってきたが、冒頭で述べたとおり私は合氣道とデザインと宇宙サークルの活動を同時並行にやっており、一つ一つを十全にこなせているとは到底思えない。合氣道は建築学科の同期に勝てず永遠の二番手だし、デザインは四原則ぐらいならそこそこできるようになったけどその先はてんでダメという感じだし、宇宙のサークルも普段のミーティング全てに顔を出せるわけでもなく、年一回のイベントの直前だけフルコミットするというピンチヒッター的な役回りになっており、一年を通して中核的な役割を果たせているわけではない。そう。また全てを中途半端にやっているわけだ。それも仕方がなく、自分は全てのものに一定以上の興味が抱ける人間ではあるものの、時間は有限で、ましてや活動時間が被っているともなればどれも中途半端になるに決まっている。つまり、散々忌避していた中途半端さやマージナルさという属性に一時的に打ち勝つことはできたが、克服したわけではなかった。しかし、現状に満足できていないかというとそうでもなく、ちゃんと三つの団体全てに帰属意識を持てているし、サークル以外でのコミュニティであるクラスも学科も大好きだ。今回は、小学校、中学校、高校とは違い、ちゃんとうまくいっている。自分の中途半端さ、マージナルさによって今の状況が生まれ、そこに対して居心地良さというものを感じているのであれば、自分のマージナルさをも愛するべきなんじゃないかと今は思えている。程よく全てを中途半端にこなせているからこそ、今名実ともに全てを大事にできているのではないか。そう思えさえする。

僕れつみは、マージナルゆえに苦しみ、マージナルゆえに冗談が冗談とわからず、マージナルゆえに人の興味に興味を持つことができ、マージナルゆえに挫折を知っていて、マージナルゆえに人の痛みが理解でき、マージナルゆえに人好きがする人間になれて、そしてマージナルゆえに今この場所で笑って生きていられる。僕は自分の中途半端さを、マージナルさを、自分のかけがえのない美徳だとして受け入れ、これからもそのように在り続けるつもりである。

これが、僕の物語である。


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?