悪夢 2/5 "彼"は暗闇の中から現れた。

前の話-1/5

 "彼"は暗闇の中から現れた。
 突然に姿を現した。僕が病院に息子を迎えに行く準備をしていたときだった。正直言ってその時の僕は疲れ果てていた。手足が枯れ枝のようになるまで駆けずり回って、彼女の葬儀を終え、手続きにたらい回され、病院で眠り、休暇を頼んでいるはずの仕事先からかかってくる電話に対応した。僕自身の身体に本来宿っているエネルギーはとっくに使い果たされ、今の僕はうたた寝する人がぎゅう詰めの人混みの中で転ばないのと同じように、周囲のひどい混雑によって立っているかのように見せかけられているだけのはりぼてだった。一瞬でもこのざわめきが途切れたら僕はあえなく転倒し、もう起き上がることは叶わないだろう。だから立ち止まることはできなかった。僕はあの子を育てていかなきゃならないのだから。彼女の代わりに。
 "彼"は、そうやってせわしなく動き回っている僕の視界の端に、これまでもしばしば映り込んでいたようだったが、はっきりと顔を合わせるまで、僕はその事実自体を思い出すことができなかった。憔悴しきっていたからなのか、それが"彼"の特異な部分の一つであったのかはわからない。しかし、彼は少し前から僕に付きまとっていたようだった。それがわかると、僕は急に苛々するのを抑えられなくなった。

「誰なんだ?」
 僕は影に向かって声を投げかけた。

「はあい」
 その男は返事をして、滑るように僕の目の前に姿を現す。

 夕方に長く伸びる影法師のような、細長い男だった。黒づくめの礼装には隙がなく、肌の見える部分がない。襟からつま先まで真っ黒だ。にゅっと突き出した首は蝋めいて白く、顔は意味深く笑っていた。愛想なり含みなり、何かしら思うところがあって、ついつい笑ってしまう、そういう顔だった。そうして頭には山高帽を載せて、黒い皮手袋の先には黒檀の短いステッキを携えていた。

「誰かとは申しますまい。あなたは私を知らないし、これからも知ろうとは思わないでしょう」

 それは的を射ていた。こんな人間が実在するはずがない。こいつは僕の幻想で、僕の眼球の端っこ、影に成る部分に映った影絵芝居に過ぎない。

「余りにも疲れてしまったようだ」

「そうです! よくお分かりでいらっしゃる。でありながら、なぜ今もまだ、そんなに足踏みをなさっているんです?」

「足踏みだと?」

 僕はやはり苛々とするのを抑えられなかった。そんな力がまだこの身体の中にあったとするならば、それは今すぐ病院へ向かうために使うべきだとわかっていながらも。

「そうですよ。前にもいかず、かといって後ろへもいかず、右にも左にも曲がらない。この姿をどうして歩いていると言えます? なのにそんなにもくたびれきっているとするならば、それはやはり足踏みをしているとしか言いようがないでしょう、わかりきったことですよ」

「何をわかったと言うんだ。君は何もわかっちゃいないよ。たしかに僕は身動きが取れずにいるが、それでも時間が流れている限り、必ずしも僕はあの子を迎えにいくし、ならば前に進んでいないとは言わせまい」

「おやおや、本当にわかってないのが私のほうだとお思いになりますかねえ。ほうっておいても大きくなる子供を一人、手元に置いておくことを前進だなんて誰も呼びやしませんよ。強いて言うなら、時間が流れている限り、あらゆる人間はそこに置いていかれるものなのです。あなたにとって時間がまるで川の流れのように動き回っているものなら、ようするにやはりあなたは立ち止まっているんだ」

「おかしなことを言うものだ。時間が流れているなんて当たり前のことだよ。それに」

 僕はもうコートを着込んで歩き出していた。

「あの子には僕の助けが必要だ」

 黒ずくめ男は肩をすくめた。
 僕は彼を部屋に残したまま外へ出た。寒い朝だった。

 *

「それは違うのではないですかねえ。おわかりの通り、それはまったく真逆ですよ。あなたがその子供を欲している、ただそれだけのことです」

 それがどうした。結局は同じことじゃあないか。

 ストリート22番を歩きながら僕は一人ごちた。
 その隣をかつ、かつと踵を鳴らして歩く男の姿を、しかし誰一人として気に留める通行者はおらず、やはり彼は僕の視界のシミのようなものに過ぎないようだったが、もはや暗闇の中をかすめるようなことはせずとも、白昼堂々僕の隣を歩く力を得たように思われた。その力をどこから引きだしているのかは分からず、しかし少なくとも僕の中からじゃあないだろうと思った。僕の中にはもう力という類のものは全て使い果たされていて、マッチの燃えさし程度の熱量も持ち合わせていなかった。ただ僕はわずかな思考の破片と、スケジュール帳が指し示すほうへただひた歩く足だけを使って、どうにか生き延びているようだった。

「しかしねえ、私はあなたに教えて差し上げなくちゃならないんですよ」

 僕が病院の茶色い尖塔を見上げたとき、視界の片隅で肩を震わせて"彼"は言った。僕はそれに答える気力さえ緩やかな上り坂に削られていたので返事はしなかったが、その声はまるで耳元に囁きかけられるみたいによく聞こえた。

「あなたは一人で生きていくことも危ぶまれるぐらいのところです。それに子供を背負って歩くだなんて! きっと坂を転がり落ちていくまでにそれほど時間はかからないでしょうねえ、ええ、あなたはいつも坂の下を転げまわっていたでしょうから、そんなのへいちゃらかもしれませんけれどねえ、あの子はどうするんです? あなた、ええ、一緒に路傍の石のようになって、コケの生えていくのをだまって眺めているぐらいなら構いませんが、あの人のためにそんなことにはなるまいとあなた思ったんでしょう?」

 首を動かす元気もなかった。僕は急に歩く規則さえ失ってしまったかのようになって、ふらふらと貧血を起こしたみたいに病院の待合に倒れ込んだ。受付へかかればもうすぐなのに、どうしてもそっちへ向かって歩くことができなかった。ただ黙って長椅子に寄りかかっていることしかできなかった。

 "彼"は今度は急にだまって、僕の隣へ静かに腰を下ろしていた。
 天井を擦るほどの長さの山高帽はしかし、リノリウムの床の上を行き交う人々の目には映っていないようだった。

 僕は考えようとしたが、その余裕はなかった。脳みそが重たい石くれになりかわってしまったみたいに、頭はこれでもかというほど働かなかった。かといって、脳がそんな調子であるから、眠ることもできず、ただひたすらに僕の身体は軌道を失い、硬直していた。

「さあ、ここへ居てもどうにもなりませんよ。立って、立ち上がって。そして歩き回りましょう。曇天のストリート、噴水通りを二周回って、あの緑の屋根を目指しましょう。ええ、あれはあなたの家ではありませんが、あなたが愛するあの人を仕入れたすてきな野菜畑です。そこまで行けばあなたの可愛い少年を保育器よりもっとましな、そして、ええ、あなたの寝泊りしている、あの油と古い接着剤の匂いがする独房のような部屋へ、あるいは主を喪った鷹の巣のような空虚で愛のない部屋へ、可愛いそのお団子ちゃんを転がしておくような悲劇は回避されるのですよ」

 "彼"の言葉だけは、他のいかなる情報をも咀嚼する気力を失った僕の耳の奥へ響いた。まるでそれは僕自身が考えて思い描いたことのように思われたし、よく考えるならこの男は僕の影法師なのだろうし、ならばやはり僕自身の思考なのだ。そうだ。僕は立ち上がり、今すぐあの緑の屋根へ行くべきなのだ。そうすれば僕はもうこんなひどいシミに追いかけ回されることだって。

 不意に泣き声が聞こえた。

 悲痛だった。胸を引き裂くような悲しみは廊下の向こうからがらがらと崩れ去るような音を立てて走ってきて、稲光のように僕の目の前を通り過ぎていった。それは事故に遭ったと思しき人と、ストレッチャーに縋る女性、そして冷徹と炎を湛えたおそろしく強い目をした医師たちの一団だった。彼らは集中治療室に消え、僕はそれを茫然と眺めていたとき、自分の首が硬直を逃れているのに気が付いた。
 そして、頷いた。

「おやまあ」

 "彼"は呆れたように首を振ったが、僕は受付に歩き出していた。血の代わりに身体中の血管を鉛が流れているみたいに身体は重たかったが、僕は歩くことができた。

 彼女を襲ったおそろしく冷たい衝撃に比べれば、僕の背中に覆いかぶさる影などどれほどのものだろう。僕の小さな少年が得た苦難のこれからに比べれば?
 僕の悲痛は未だ胸の中に溜まってどこにも吐き出せないままでいる。それは彼女と過ごした時間から裏切られた山ほどの悲しみで作られている。これを僕の小さな少年に与えるわけにはいかない。僕がいかに暗渠たる心の持ち主であってもそれは確かだし、ならばこの暗渠たることは等しく解消せねばならない。

 僕は無事、息子を抱いた。看護婦の人の微笑みは暖かく、春の太陽のように僕の湿った芝生を照らした。彼はむずがったが、僕のことを見上げて、ぶー、と囁いた。看護婦が笑ったので気が付いたが、僕もまた微笑んでいたらしかった。急にすべてのことを行う力が沸いた。僕は自分の力で歩き、自分の家まで歩き切ることができた。

 *

 ”彼”はリビングで待っていた。いつも彼女が座っていたコーナーに腰掛け、ぱちぱちと拍手で出迎えた。
 僕は儚すぎるほど弱くはなく、一人で生きられるほど強くはない重さをした僕の小さな赤ん坊を、彼女がしつらえた籠の中に降ろすと、自分の力で全身に張り付いた緊張の糸を引き千切り、そのまま床に伏した。こうすることが必要だと思ったのだ。僕は魂を回復しなければならない、僕のためではなく、僕の小さな少年のために。

「あなたの愛に免じて、私がなぜあなたの前に姿を現したか、本当のところをお教えしましょう」

 僕が眠りにつく直前、男は突如として僕の眼前に立ち、そしてそのように囁いた。

「あなたを裏切った彼女との幸福な時間に、報いというものを思い知らせてやりませんか? あなたの胸の中の邪魔物を片付け、あなたと、あなたの小さな少年の日々を取り戻すために」

 目を閉じていてもわかった。"彼"は微笑んでいた。まるで聖母のように。


3/5に続く)

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