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平成最後の夏、世界終了のお知らせ

もう夏終わるわ……。

 

 平成最後の夏がやってきた。
 天高く空晴れ渡り、炎天下は36℃。地方都市を吹き荒れるビル風は清々しさの欠片もない熱風で、太平洋側に暮らす人々の宿命で湿気をはらんでいる。
 生きたまま蒸し焼きにされようとしながら、私はテニスラケットを背中に下げて学校へ向かおうとしている。
 バスを待ちながら、もう既に気力はなく、あと一年で必ず辞めてしまう、もう二度と持つ機会があるかもわからない、親の金で買ったラケットを毎日素振りして、大会に出ればさっさと挨拶だけしてチョット噛ませ犬をして家に帰ってしまうような生活のために、受験を考えなくてもいい最後の夏休み、平成最後の夏休みを浪費してもいいのだろうか?
 みたいな考えすらも暑さに解けて汗と一緒に流れ出してしまう。
 とにかく暑い。もう将来の展望とかそんなことはどうでもいい、あと一秒だってここに居たら耐えられん。

 駆け出す。繁華街の裏通りには滅びたアーケード街がある。昔は賑わっていたのだろうが、駅の南側のほうに大型ショッピングモールが出来たせいか、駅の中にもエキナカエキナが出来たせいか、もうここには何もない。小さいころ通ったそろばん塾もないし、風邪ひいたときに行った内科もないし(先生は御高齢だったので、亡くなったのかもしれない)、その帰りとかに寄った駄菓子屋もない。クリーニング屋だけがひっそりとのぼりを立てている。去年まで床屋はやっていたが、エキナの中にある理容店に客も従業員も吸われて閉店したらしい。

 少しだけ下水の匂いがする裏通り、破れかけたアーケードの被膜を纏った外骨格のような布漏れ日の道を走り抜ける。学校に行くのを諦めたわけではないが、バスの一駅先まで、ほんの少しでも天上から投げかけられる熱射光線から逃れたかった。もしかしたら走っているうちに学校に行くのを諦める気持ちになれるかもしれないし、そうなれば堂々とサボることもできるのだし。
 このまま熱中症が脳を焼き尽くし、理性を蒸発させてくれたらよい。さすれば世界には光が満ち溢れ、真っ青な後光が流れ出し、パーティークラッカーのようにカラフルな風が吹きすさんでよくわからないことになるだろう。
 そう思いながら角を曲がった途端、足元にカラスの大群がいて、勢いよくその中に駆け込んでしまった。

「うわっ」
 カラスが黒い紙ふぶきのようにバタバタと音を立てて顔をかすめて飛び去る。
 その後には、ねこが落ちていた。

 頭のてっぺんに黒ぶちのある白いねこが、コンクリートの上に転がっている。首がおかしな方向に曲がっており、腹部が破裂していた。飛び散り方から見ても向かってくるトラックか何かに撥ねられたのかもしれない。この道路は表通りに繋がっていて、見通しは悪そうなのにこんな死に方をするような速度の車が通るとはおそろしい話だ。
 私はスニーカーの腹でねこのはじけた遺体を押し、道路の脇に寄せる。
 ねこは無抵抗でずるずるとスニーカーに引き摺られ、側溝に落ちて行った。

 これで道路に残っているのは染みだけであり、ねこが存在した痕跡はこうしてコンクリートブロックに頭をつけてまで側溝をのぞきこみたがる人間以外の知るところではなくなった。
 おそらくここが住宅街である限り、このねこにも、首輪はなくとも名前はあったはず。
 では、誰か周辺生息圏の人間がこのねこの遺体を発見したときに広がる染みと、このスニーカーの汚れを比べたら……
 スニーカーを見てみると、足先に遺体を暗渠に蹴落とした痕跡はなにもなかった。

 比べることなどできんな。

 しゃがむとより一層暑かった。ねこの染みを傍目に、指先をついて一方通行の看板を見据える。罅割れたアスファルトが指の腹を焼くように熱い。これは熱かっただろう。焼肉になっちゃうな。
 まだ学校に行かない決心はつかなかった。クラウチング・スタート。次の日陰まで、真っ直ぐに駆け出す。

 すると目の覚めるような音がした。
 それがクラクションだと気付くのと、振り向いた目の端にナンバープレートの下2桁「-99」が張り付くのと、それ以外の全てにヘッドライトから反射した凄まじく眩しい光が焼けつくのと、水筒を忘れてきたからコンビニでスポドリ買おうと思っていたのを忘れていたことを思い出すのと、やっぱり学校に行くのはやめたほうがいいだろうと決心をつけるのはすべて同時だった。
 ぱちん! と世界が焼失した。気温が800℃を超えて蒸発してしまったのだ。しかし私はまだ空を見ていた。雲一つない夏の空。足が折れた、と思った。特に何も感じなかったが、足の骨がなくなったような気がした。確信はない。また、確かめる方法もなかった。
 その時私は、既に面接会場に座っていたからだ。

 パイプ椅子の上で身体はかちこちに強張っている。
 面接会場は完全に蒸発したはずの世界と地続きになっていて、青空がそのまま張り付いていた。沸き立つ雲の形もそのままに、ただそこにはパイプ椅子と会議机があって、面接官らしいスーツ姿の女性が座っていた。

「さっそくですが――私は女神です。あなたはトラックに撥ねられたわ、お気の毒に」
 女神の人は言う。

 私は自分の足を見た。腿から先はぼかしがかかったあとに透明になって消えており、どうなっているのか微塵もわからない。

「死んだんすか?」
「さあ。わからないけど」

 女神は肩をすくめる。足より下のさらに下にトラックが見えた。側面に【(株)生転界世異】とかいうふざけたロゴが入っているのが分かる。私は空中でそれを見ている。トラックが一方通行は守っても制限速度は守っていなかったのは明らかだった。

「過失十割、向こうっすよね」
「でしょうね。ところで本題なんだけど」
「はい?」
「このまま死にたい?」
「……はい?」

 女神はちょっと小悪魔っぽく笑っている。化粧をしているし、スーツなので年上に見えたが、芝居がかった喋り方まで取っ払ったら、もしかしたら同い年ぐらいかもしれないと思った。

「私ね、一人称カメラ視点のときしかこうして喋れないから、出てくるだけで珍しいの。よかったらこのまま生まれ変わってみない?」
「ええ……」
「って言ってみたかったんだけど、私、そういうのは担当じゃないの。だから特に新しい設定が付与されたりすることもなくて、あなたはあなたのままなんだけど」
「さようで」

 女神はストッキングで真っ白になった足を会議机の上に投げ出した。あまりにもスマートだったので、それは彼女にとって非常に自然な姿であるように思われた。

「でもせっかくだからひとつだけ、なんでも願い事を叶えてあげるわ」

 私は茫然と目の前に広がる空を見つめた。

 世界はほぼ静止したように思われたが、実際は何千万分の一秒単位で少しずつ前に進んでいた。私の身体は空中に寝そべっているわけではなく浮遊している、おそらく時速数十キロで。しかし今、私はただパイプ椅子に座って、今際に叶えたい願いについて考えさせられている。答えはないが正解はあるおそろしい問いかけだ。就職試験のように。
 ねこのいなくなった染みはここからではトラックの影になって見えない。

「あのねこを……」
「うん」
「滅ぼしたい」
「は?」
「いえ、やっぱり、それ以外も。世界を全部。全部滅ぼしたいです」

 例えば綺麗に飾り付けられたシルバニアファミリーを家ごと逆さにひっくり返すように。終わらない冬をつくって地上の半分の動物を滅ぼす小惑星のように。リセットボタンの代わりに押し寄せる大きな津波のように。散らかった机の上にあるものを全て床の上に落として掃除をしたつもりになるように。SNSのアカウントをひとつ残らず全て消してこの世の誰でもなくなるように。

「滅ぼしたい」
 世界を。美しいものも、悲しいものも、そうでないものも、天上天下の全ての。

「イイネ!」
 女神はハートを飛ばした。

「その願いを叶えましょう。これより、あなたは全ての世界を滅ぼし、全ての命を破壊する、どこにでもいる普通の幽霊。さあ、行ってらっしゃい!」

 パイプ椅子を支えていた存在しない地面がぱかんと割れて、私の身体は落下する。

 落下し、落下し、落下し、落下してそして、時速数十キロで地面に叩きつけられる代わりに、空気との摩擦で着ていた制服がすべて燃え上がる。表皮と皮下脂肪に引火して身体は燃え盛る一本の槍になる。加速度を纏ってミサイルよりも速く、真っ直ぐに飛ぶ。眼球が熱で縮み、レーダーのように冴えわたる。でも足はない。幽霊だから。
 入道雲の向こう側に海が見える。海水浴客がバタバタと遊んでいる。生命の母で。
 貴様らを滅ぼし、――滅ぼし、私は願いを叶える。


 平成最後の夏、世界滅亡のお知らせ。

 

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