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今月のYAMAHAカレンダーは阿部典史《ノリック》

1991年、僕がレース活動に打ち込んでいた頃、RIDING SPORTSという雑誌で15歳の彼がアメリカに渡りダートトラックの修行をしているという連載記事が載っていた。

彼が日本に帰ってきてロードレースを始めてからも連載は続き、92年国内A級昇格、93年国際A級昇格と同時に全日本の最高峰500ccクラスに参戦、いきなりチャンピオンを獲得するという快挙をつぶさに見ていた。

ただ、全日本の500ccクラスはこの年がラストイヤー。どうしても500に乗りたかったノリックは大勝負に出た。全日本チャンピオンはワイルドカードで翌年の世界GP第1戦鈴鹿に参戦することができる。

当時、全盛期だったケビン・シュワンツやミック・ドゥーハンと互角に渡り合うことで世界への扉を開こうとしたのだ。

果たして、決勝本番では超高速の1コーナー突っ込みで何度も何度も2人から先頭を奪う激走を見せる。しかしトップ走行中、残り3周となった1コーナーで転倒。リタイアとなる。(ちなみにこの時のマシンは何回転したかわからないほどの勢いで宙を舞った。それほどハイスピードだった。)

だがその走りを、当時ヤマハのチーム監督をしていたウェイン・レイニーに認められヤマハから世界GPへフル参戦することが決まる。

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《クシタニの卓上カレンダー 奇しくも同じ6月がノリック しかも鈴鹿でドゥーハンとシュワンツの間に割って入って走る場面》


鈴鹿でのノリックの走りは、まだ子どもだったバレンティーノ・ロッシに憧れを抱かせるほどで、ロッシは後に『ろっしふみ』と名乗った。『後にも先にも自分がサインを求めたライダーはノリフミだけだ』とも語っている。

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《2000年 イギリス ドニントンパークにて ロッシ&ノリック》

ロードレース界をセンセーショナルに駆け抜けたノリックは、2007年、公道走行中の事故で帰らぬ人となった。享年32歳。惜しい、早すぎる死だった。

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