20181112 パリが愛した娼婦メモ

p.128 コルバンは、このプロセスを次のように描いている。


「『精液の排水溝』としての娼家(そこへ人は生理的欲求のはけ口をもとめてやってくる)、そんな娼家に人々はもはや、いくばくの魅力も感じなくなったのである。それに代わって、誘惑が性を美化し、それへの関心が著しく高まった」

では、こうした新たな消費資本主義的な欲望をもった男たちは、どんな娼婦とどんな娼家を望むようになるのだろうか?

まことに逆説的ながら、娼婦らしからぬ娼婦のいる、娼家らしからぬ娼家ということになる。

つまり、ひとことでいえば、素人娘や人妻と疑似恋愛的な関係になることのできるようなトポスということである。金で「セックス」か買うのではなく、「愛」を買う(と錯覚できる)ような娼家が理想なのである。

「淫売宿の露骨な女の裸姿や安物の金ピカづくめは、かえって不快感をそそるだけのものとなった。娼婦でない自由な娘たちが競って客を求めたり売春の新しいやり方が普及したことで、ある種の娼家は散ざんな目に遭った。」

ここでコルバンが「娼婦でない自由な娘たちが競って客を求めたり売春の新しいやり方が普及した」と述べているのは、ウエイトレスが給仕するふりをして売春するブラスリ、あるいはメゾン・ド・ランデブーと呼ばれた素人(という触れ込み)のパートタイム売春斡旋所などである(拙書『パリ、娼婦の館』参照)。。

ところで、このうち、ブラスリがメゾン・クローズの経営を脅かす直接の脅威になったのに対し、メゾン・ド・ランデブーの方は、メゾン・クローズが模索する新しい営業形態として注目を集めるようになる。なぜなら、待機する娼婦は鑑札を持った公娼でなければならないメゾン・クローズに対し、メゾン・ド・ランデブーの方はその規則がなかったからである。その結果、従来は閉鎖型だったメゾン・クローズが次第に「開かれた」ものになってくる。


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istvan0817

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