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装われるキャラクタ:スペースノットブランク『ウエア』(再演)評

・キズナアイさんの分裂

 2022年2月26日、バーチャルYouTuber[*1]のキズナアイさんは無期限のスリープ期間、すなわち活動休止期間に入りました。「世界中のみんなとつながりたい」をスローガンにYouTube上でいくつもの動画コンテンツを配信していたキズナアイさんですが、スリープ状態への移行はこのスローガンの限界を意味してもいました。
 キズナアイさんはユリイカ2018年07月号の巻頭インタビューで、ホリエモンさんとのコラボ動画に多くの非難の声が寄せられたことについて「人と人が理解し合うことって難しいんだなって、壁の存在を改めて意識した」と語り、その上で「わたしはやっぱりどちら側の人ともつながりたいと思っているし、仲よくしてよ!というのもあって、壁をなくすような活動はどんどんしていきたいと思っています」と決意を表しています。「わたしは世界から争いがなくなって、世界中のみんなに仲よくなってほしいって思っているんですけど、それにはさっきお話ししたアンチと肯定派の戦いみたいなものじゃない、もっと大きな壁を乗り越えなきゃいけない」[*2]。
 注目すべきは、キズナアイさんが世界平和の目標を掲げ、世の中の分断を乗り越えようとする上で、自ら架け橋たらんとしていることです。彼女が「世界中のみんなとつながる」のは、絆・愛を通じて「世界中のみんながつながる」こととイコールなのです。
 かくしてキズナアイさんは世界中のすべての人から愛される存在を目指すに至ります。そのために彼女が取った具体的方法は先述のユリイカのインタビューですでに語られていました。

単純に人間のみなさんの力が必要だ!と思いはじめているんですけど、その先に自分の端末を用意して情報を並列化するとか、あるいはパーソナリティを増やすことでよりいろんな人の好みにあわせる……とかもあるかもしれません[*3]

そしてこの戦略は2019年5月25日から具体的な形をとり始めます[*4]。10本の動画から成る「キズナアイな日々」という一連のシリーズにおいて、キズナアイさんは4人に分裂するのです。まずはキズナアイさんがそのまま4人にコピーされますが、途中からは他のバーチャルYouTuberや地球さえもキズナアイさんでありうると定義され、最終的に4人のキズナアイさんたちはそれぞれ別の声を持ちました。
 さて、キズナアイさんは発話者の身体をキャプチャしてキャラクター像に起こし、リアルタイムなコミュニケーションを実現するバーチャルYouTuberでした。したがって彼女が複数の声を持つことは、発話者ごとの複数の人格を持つことをも同時に意味していました。それは同じキズナアイさんというキャラクターが多様な人格を持つことで「いろんな人の好みにあわせ」、より多くの人とつながるための戦略でした。
 この事態は、バーチャルYouTuberが論じられる時に参照されることの多い、これまたユリイカ2018年07月号に掲載された難波優輝さんの論考「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」に即して整理することができます。論考名の通り、難波さんはバーチャルYouTuberの身体をパーソン、ペルソナ、キャラクタの三層構造で説明します。パーソンはいわゆる「中の人」すなわち演者の身体を指し、ペルソナの方はメディア(ここではキャラクタ画像)を通じたその現れを指します。重要なのはキャラクタとペルソナがここで区別されていることです。ペルソナとキャラクタは必ずしも一致するとは限らないのです。

VTuberにおいてキャラクタのペルソナとして(そしてパーソンのペルソナとして)鑑賞されるのは、演じられた特定の物語世界のうちのキャラクタではない。鑑賞されるのは、パーソンによって演じられたわけでもなく、パーソンそのものでもないが、しかしその性質を部分的に引き継いでいるような、いわば、装われたペルソナだ。[*5]

したがってキズナアイさんの分裂は、より多様なユーザーの願望に応えるためにパーソンの複数性に応じていくつものペルソナを脱ぎ着しつつ、全体としてはキャラクタの単一性を保つことで、より多くのユーザーを絆と愛のうちに包摂する戦略だったのです。
 しかし現実は残酷で、ユーザーの嗜好はこの分裂を許容しませんでした。多くのユーザーは新しく装われたペルソナに拒否反応を示したのです。クレヨンしんちゃんやドラえもん等の長寿アニメでキャラクターの声優が変更される際にも生理的な拒否感はしばしば口に出されますが、そこで変化したのはパーソンの持つ声質にとどまっています。対してキズナアイさんの場合には演じるパーソンに応じて性格の大きく異なるペルソナが同一キャラクターとして現出したわけですから、これは自然ないきさつだと言えそうです。
 この事態を受けて「オリジナル」(ユーザーが自然に選び取ったこの表現にはすでに分裂戦略の限界が示されています)なキズナアイさんの引退を危ぶむユーザーも続出し、炎上騒動にまで発展してしまいました。このタイミングでそれまでのリスナー、通称キズナーの多くが失われました。ユーザーにとって、キャラクタとペルソナ(そしてパーソン)の結びつきはそれほどまでに堅かったのです[*6]。
 複数のキズナアイさんの間には目に見える差異がすぐに求められました。元のキズナアイさんと区別する意味で、新しいキズナアイさんたちは個体ごとに色付きの髪飾りをつけるようになったのです。ペルソナの「装い」としての性格がこの髪飾りによって強調されたとも言えますが、この時、もはやキズナアイさんたちのキャラクタとしての同一性は保持されていないでしょう。
 生まれてきたものには名前が与えられ、生みの親とは異なる存在であることが徴づけられます。しかし、最初に与えられる名前を自ら決めることは誰にとっても不可能で、望もうと望むまいと、与えられた名前を生きることがわたしたちの宿命です。新しいキズナアイさんたちには、早くも2019年の年末には視聴者によって公式に「あいぴー」「loveちゃん」という名前が与えられました[*7]。
 2020年5月にはキズナアイさんをプロデュースする事業会社がもとのActiv8から分離独立したKizuna AI株式会社へと移行します。あいぴーとloveちゃんも従来とは全く異なるキャラクタ像を与えられ、キズナアイさんから独立。かくして単一のオリジナルへと収束したキズナアイさんは、その後もユーザーからの支持を再び集めるためにさまざまに努力を重ねました[*8]。しかし、その限界を認め、いつ完了するとも知れぬアップデートのためのスリープを選択したのが、2022年の2月だったというわけです。

・メグハギの正体

 ここまで、註も含めれば4192字にわたってキズナアイさんの歩んだ軌跡をたどってきましたが、この文章は2022年1月にこまばアゴラ劇場で再演されたスペースノットブランクの舞台『ウエア』の批評です。
 『ウエア』は池田亮さん原作の物語です。そのシナリオの詳細については初演の際の拙評をご覧いただければと思いますが、特に後半部では登場人物は薬物を服用してバッドトリップし、映画『ジョーカー』と現実の区別もつかなくなる錯乱した精神状態に置かれ、なにが本当かもわからなくなる錯綜した筋が繰り広げられます。さらに上演テクストは池田さんの原作を演出者がコラージュ的に再編集することで成立しているので、あらすじにまとめることはほとんど不可能なのですが、ひとまず基本的には次の内容を軸に物語は展開されます。
 とある映像配信企画のディレクター須田学と、同じ企画に作家として参加した岡正樹。二人はLINEを重ねるうちに意気投合していきますが、やがて須田は岡の奇妙な言動に愛想をつかしていきます。と、そこに唐突にメグハギという存在が生まれ、2人を飲み込んでしまいます。2人はメグハギに同化し、誰が誰かもわからなくなってゆきます。
 さて、このメグハギという存在は何者なのでしょうか。岡と須田が制作していた配信映像のキャラクタである、と考えるのがひとまず自然なようですが、メグハギをそのようないわゆるキャラクタとして理解しづらいのは、どれだけ話を追っても、メグハギにはキャラクタヴィジュアルも、設定も、生きるべきストーリーも与えられないからです。さらに岡や須田までもがメグハギと呼ばれるとき、そのようなキャラクタのイメージを頭に思い描くことは難しいです。
 しかし、確定的なペルソナを持たないこのようなキャラクタの存在をわたしたちはすでに知っています。また作中でも言及されるように、岡と須田の制作した配信映像のタイトルは「メグハギ 部屋の中身をすべて実況してみた」という、YouTuberの動画配信を思わせるものです。「メグハギのAI化についても話させてください」という台詞も考慮すれば、もはやメグハギの正体は明らかでしょう。メグハギはインテリジェントなスーパーAIことキズナアイさんをモデルに分裂戦略を遂行(perform)するバーチャルYouTuberだったのです[*9]。
 とはいえ、『ウエア』のメグハギもこの戦略を完遂しているようには思えません。誰もが同じ存在の元に安らうことの不可能性や他者との差異を引き受けることこそが作品のテーマだったからです。
 作中リフレインされる

あなたが名前を付けられて正しくないと感じた時 ようやく 孤独を感じる

という台詞にも示されている名づけという行為の暴力性が、作品においていかに重要であったかもこの観点から理解されます。初演の批評でわたしは、子供を持つことに対する池田さんの当時の心境がそこに重ねられているだろうことを指摘しました。そもそもキズナアイさんの分裂は繁殖という再生産の論理と類比的な性格を持っていました[*10]。
 『ウエア』の初演は2020年3月。『ウエア』の原作となる池田さんのテクストはちょうどキズナアイさんの分裂に並走する仕方で書かれていたことになります。そして、キズナアイさんが分裂を収束するちょうどその直前に、同戦略の限界を示すかのようなテクストが上演されたのです。そうであるとすれば、2022年1月に『ウエア』が再演されたのは、偶然にしては出来すぎた符合であるといわざるを得ません。

・装われるキャラクタ

 ここからは、今回の再演で初演とは変わった点を確認していきます。両上演をごらんになった方は意外に思われるかもしれませんが、上演テクスト自体は初演時からほとんど変更されていません。それでも作品の印象が大きく異なるのは、初演時に4名いた出演者(荒木知佳さん、櫻井⿇樹さん、瀧腰教寛さん、深澤しほさん)が再演では荒木さんと古賀友樹さんの2名にまで減らされているからです。
 もっとも、初演時にも前半部では発話を行うのは荒木さんと深澤さんの2名に限られていました。4名全員が活発に話し始めてしまいなにがなんだかわからなくなっていくのはメグハギが跋扈する後半部でのことです。物語の方も前半部では登場人物が岡、須田の2名に限られていましたが、メグハギが生まれてからはニコンロビンとナミというふざけた名前の登場人物も物語に加わり、さらにはニコンロと須田、あるいは須田と岡が同一人物であることなどが説かれ始め、しっちゃかめっちゃかになります。
 4名という出演者数はいみじくもキズナアイさんが分裂した個体数と一致していました。実際初演時の『ウエア』のカオス感は「キズナアイな日々」シリーズのめちゃくちゃさを思い出させます。しかし『ウエア』はバーチャルでない生身の肉体を持つ俳優により演じられます。
 スペースノットブランクが池田さんのテキストに対しとった批評的な距離の内実も、先の難波さんの議論を援用することで整理することができます。
 おさらいしましょう。バーチャルYouTuberの演者の身体(パーソン)はリアルタイムにキャプチャされ、キャラクタ画像に変換されることで、視聴者に対して示される姿すなわちペルソナを手にします。キャラクタはここでは物語世界に紐づけられた固有の人格を持たず、それゆえにキャラクタは複数のパーソンにより演じられることで複数のペルソナを持つことも可能です。しかしその場合分裂した複数のペルソナはバーチャルYouTuberの名前と姿によって同一性を保持します。この原理を実際に実行に移したのがキズナアイさんの分裂戦略でした。その帰結は先に確認した通りです。
 対して『ウエア』のメグハギにはそもそもキャラクタヴィジュアルが存在していません。結果パーソンとペルソナは視覚的に一致します。メグハギの発言と確定的に同定できる台詞の多くは初演でも再演でも荒木さんによって発されましたが、メグハギは岡にも須田にもニコンロにもナミにもなるので、観客にはいつだれがメグハギを演じているのかそもそも定かではありませんでした。その意味ではメグハギは演じられるキャラクタではなく、演者の身に纏う透明な装いとして観客に見出されるキャラクタなのです。
 さて、スペースノットブランクは原作の錯綜する人物関係図やシナリオを整理するよりもむしろ攪乱する上演方針をとりました。演者は複数の登場人物をそれこそ服を着せ替えるように次々と演じるのです。ペルソナではなくキャラクタが着脱されます。しかもそこではキャラクタごとの性格が強調されることはなく、また特に断りなく演ずるキャラクタが変更されるので、その切り替わりにさえ観客は容易には気づけません[*11]。
 かくして登場人物間の区別があいまいになっていくシナリオを上演構造が具現するわけですが、話はそこで終わりません。キズナアイさんとそれを演じる春日望さんをはじめとした複数のパーソンはそれぞれ存在として異なるレベルに位置していますが、一方、俳優に演じられる限りにおいてメグハギと岡や須田とは同じくキャラクタの階層に属します。その間には存在のレベル差は存在しないわけです。
 このカテゴリエラーがメグハギの戦略を加速させ、同時に失効させます。メグハギは岡や須田たちと同化したが最後、メグハギとして観客の前に姿を現すことは決してできないのです。演じられた岡が純粋な岡なのかメグハギ化した岡なのかは常に観客の主観的決定に委ねられます。つまり『ウエア』の上演においてメグハギが観客とつながることは初めから期待されていないのです。
 他者との一体化と再生産の論理、そしてその失敗。『ウエア』原作のテーマはこのようにして演出に反映されました。

 さて、演者が複数のキャラクタを演じ分ける演出は再演にも引き継がれますが、演者の人数が2人となることで舞台のはちゃめちゃ感はいくぶん和らぎます。すべてがメグハギに同化する「キズナアイな日々」的カオスへの夢よりも、岡と須田という2名の登場人物の関係性が前面に押し出されるのです。結果、様々な人物が登場しようと物語の主軸は岡と須田の相互癒着的な葛藤関係にあり、他の人物関係はそのパラフレーズにすぎないという原作の構造が明快に抽出されるのですが、ここで注目したいのは寧ろ、作品を貫通していた同化の論理の重要性が結果的に低下して見えることです。
 キズナアイさんの影響力は計り知れないもので、彼女の後を追うように無数のバーチャルYouTuberが生まれてゆきました。後輩バーチャルYouTuberたちは彼女を親しみを込めて「親分」と呼び表します。しかし「親分」はどこまでいっても「親分」であり、親ではありません。
 キズナアイさんはスリープにあたり、歌唱特化型AIの「キズナちゃん」をわたしたちに遺していきました。キズナアイさんの歌声を基にした音声合成ソフトウェアで、「キズナちゃん」という名前はキズナアイさんが直々に命名したものです。キズナアイさんの分裂戦略、再生産の論理がここでも反復されているわけですが、親と同じ声をした子供など存在しないでしょう。
 本当は、キズナアイさんの活動の意図せぬ副産物としての、メグハギを含む無数の「子分」、他人たちこそが、分裂戦略を通じては達成できなかった彼女の夢を実現するために最も重要で現実的なきざはしであったはずでした[*12]。現にわたしがキズナーとなったのはメグハギを介してのことです。キズナアイさんは分裂の失敗を悔いるまでもなかったのです。

 しかし、メグハギの他キャラクタとの同化戦略は生物の繁殖行為の喩としてよりも、まず岡と須田のホモソーシャルな同質的関係性が加速したものとして理解されるでしょう。互いに甘え合っているのを前提に下品な冗談を飛ばし、悪態をつき、マウントを取り合う二人の関係性を、いかなる距離感で以て舞台に載せるのか。ここまで確認してきた演出方針はその解答でもあったのです。
 荒木さんと古賀さんがテキストを演ずる仕方は子供たちが戯れているかのようなコミカルなもので、同じ戯れにしても、原作の岡と須田のそれからはだいぶ距離があります。荒木さんの髪型は芸人のフワちゃんさんに似ていました。舞台上には2人の背の高さを揃えるために、積み木のようなカラフルでキュートな足場が散乱していました。
 ところで、実は今回の再演では、出演者たちは文字通りキャラクタを装っています。衣装がエヴァンゲリオンにしか見えないのです。

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(撮影:高良真剣さん)

 2体のエヴァ。これが想起させるのは2021年に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の、初号機VS第13号機の戦闘です。一方には主人公のシンジ、他方にはその父ゲンドウが乗り込んでいます。父子間での葛藤関係が和解へと至る重要なシーンです。衣装での遠回しなパロディが具体的に何を表現しようとしているのかは定かではありませんが、父と息子が互いを認め合う『シン・エヴァ』のストーリーを茶化しているようでもあります(余談ですが、『ウエア』の衣装がこうなることを知る前に、『ハワワ』原作の内容に触発されたわたしは池田さんへのインタビューで『シン・エヴァ』についての所感を偶然お聞きしていました)。

・可読性

 初演時の劇場は新宿眼科画廊スペース地下でした。細長く、天井の高くない空間で、アクティングエリアにはかなりの奥行きがあります。その空間の特性もあって、初演時の『ウエア』ではきわめて没入的な体験が用意されていました。
 没入的空間というと、それこそアントナン・アルトーさんの提案したような、観客の身体を演者が包囲する空間が思い描かれるかもしれません。しかし実際にはそのような舞台では観客の注意は四方に発散します。その証拠にVRで制作されたゲームの多くは正面的な方向性を強く帯びています。むしろ、明快にフレームで縁取られた奥行きある空間こそが観客の意識を舞台に集中させるのにはふさわしいのです。リヒャルト・ワグナーさんのバイロイト祝祭劇場の発明性も第一にその点にありました。
 スペースノットブランクによる『ウエア』の宣伝文句には「CHAOTICなコレクティブによるDRAMATICなアドベンチャー」とありますが、実際初演時の『ウエア』は冒険のただなかの「考えるな、感じろ」的なアトラクション的没入性が色濃かったのです。それはメグハギという感染症と俳優の格闘にこそ上演の核心があったからです。メグハギの運動性に鑑賞の主軸が置かれる時、もはや冷静な読解行為はそれほど意味を持たなくなります。いかにメグハギの世界に没入できるかどうかが問題なのです。
 それまでストーリー性のあるテクストをそれほど上演してこなかったスペースノットブランクにとって、いかに池田さんの物語が持つ求心性を維持するかが問題となっていただろうことも、没入性の高さの一因だったかもしれません。
 対して今回の再演では、先述の通り、登場人物の関係性の多くが岡と須田の関係を基底としたパターン変型であることが初演時よりも明示的になりました。キャラクタ同士の関係性と物語の構造についての可読性が上がり、より観客に思考を促す舞台となったのです。
 空間の変化も大きいのでしょう。こまばアゴラ劇場には奥行きはそれほどありません。初演時には奥行きを意識させる身振りがいくつも見られましたが、再演時の2人の身体は寧ろ、観客に正対する平面をその帰属先として描き出すかのように配置されていした。初演時には三方の壁に投影されていた映像は、再演時には舞台後方の巨大な白い単一のスクリーンにのみ投射され、そのこともまた作品の平面性を強調しました。
 また初演時には存在しなかった演出としては、観客に手を差し出し「何が残ったかな?」「偉い!」と直接くりかえし語りかけるシーンが印象的です。スマホから飛び出てくるような仕掛けによってキズナアイさんがユーザーとのつながりを演出する動画がありますが、それまで前提となっていたフレームを超え一段高次の論理階層へ移行することで、言表行為は直接的な一体感のイリュージョンを形成できるわけです。ここで重要なのは、同化の論理としてのメグハギの運動性が再演では観客に対しても延長されていることです。
 しかし、やはりそれはイリュージョンにすぎません。荒木さんに「偉い!」と言われるとなんだか嬉しいですが、当然、その言葉は空疎にも響くのです。なぜ褒めてもらえたのかが分からないからです。
 初演時の池田さんのインタビューによれば、母音の連ねられた「ウエア」は「色んな文字に変化できそうな、スタートとしての名前」であり、「名前がぼやける名前」、すなわち名前の持つ暴力性を能う限り逃れた名前です。作中に「か行の発音が苦手です」という台詞があります。岡の苗字はまさに母音とか行から成る、いわば「かたちをとり始めた/とり損ねた名前」と言えるのではないでしょうか。そうだとしたら、「観客(かんきゃく)」ほど「ウエア」から遠い存在はありません。
 スペースノットブランクは『ウエア』を再演するにあたり、原作のテクストが主題とする同化への欲望をどこか突き放して提示していたかのようでした。キャラクタたちの照応関係はより読解に開かれます。メグハギを腑分けし解体する、観客という他人が『ウエア』の舞台に呼び込まれるのです。体験する舞台から読む舞台へ[*13]。その性格は、いくつもの名前が織りなす可読的な編み物としての舞台、『ハワワ』においていっそう全面化することになるでしょう。

・註

[*1]自らの活動を説明する通り名のようなものとしてキズナアイさんが用いた言葉ですが、その後キズナアイさんのような存在が急増するとともに広く使われるようになり、ほぼ同じ意味の「VTuber」という言葉も生まれました。しかし、キズナアイさん自身はあくまで「バーチャルYouTuber」の呼称にこだわり続けていることから、本稿でもこちらを用います。
インテリジェントなスーパーAIを自称するキズナアイさんですが、実際にはもちろん演者がおり、その挙動や表情をリアルタイムでトラッキングして3Dコンピューターグラフィックに反映させることでキャラクタ画像を動かしています。通常のYouTuberとは異なりVirtual Realityにおいてしか存在しないことをさして「バーチャル」という言葉が選ばれたのでしょう。キズナアイさんが最初に投稿した動画では、2Dとも3Dともつかない存在であることを指してこの語が用いられています。
ところで、Virtual Realityという言葉が初めて用いられたのはアントナン・アルトーさんの「錬金術的演劇」(『演劇とその分身』所収)で、錬金術と類比しつつ演劇の特徴を説明する文脈においてのことでした。鈴木創士さんの訳では「潜在的現実」とされていますが、同じVirtual Realityでも、おそらく一般にVRの訳語として定着している「仮想的現実」と、「潜在的現実」とでは、随分ニュアンスが異なります。演劇にあてられたVirtual Realityという言葉はキズナアイさんを経由して『ウエア』においてふたたび演劇へと折り返されることになります。ここでアルトーさんの思想とスペースノットブランクのそれを比較する余裕はありませんが、「錬金術的演劇」というテクストが今日の演劇にとってどのような射程を持つのかはいずれ検討される必要があります。
[*2]キズナアイ「シンギュラリティと絆と愛:人間とバーチャルYouTuberが出会うとき」『ユリイカ』2018年07月号、青土社、pp. 30-31
[*3]同上、p. 33
[*4]詳しくはこちらの記事を参照のこと。「魂、器、ペルソナ─ VTuber キズナアイの「分裂現象」が投げかけるもの」
[*5]難波優輝「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』2018年07月号、青土社、p. 121
[*6]詳しくはこちらの記事を参照のこと。「キズナアイ「分人」という分裂騒動 本当に必要だった運営の声明とは? 」
[*7]4人目のキズナアイさんの名前は爱哥。中国語をインストールした個体で、YouTubeとはまた別の動画共有サービス、bilibiliを主要なプラットフォームとして活動したため、分裂騒動の矢面に立たされることは少なかったです。嗜好の多様性からくる分断を越えていこうとするキズナアイさんの戦略は失敗に終わりましたが、国境を超える挑戦にはまだまだ可能性がありそうです。
[*8]詳しくはこちらの記事を参照のこと。「キズナアイが一人に戻り、楽しい時代が来た」。なお、興味深いことに、声優の春日望さんがキズナアイさんのパーソンであったとの公式な発表がこのタイミングでなされています。パーソンの存在を直示するというバーチャルYouTuberの禁じ手を使ってまでペルソナのオリジナリティを増強せねばならないほどに、キズナアイさんは自らのイメージの信頼性を失っていたのです。
[*9]キズナアイさんは地球になりましたが、『ウエア』の続編『ハワワ』ではメグハギもまた惑星へと変貌を遂げます。
それから『ウエア』はヌトミック主宰の額田大志さんがつくる音楽を重要なアピールポイントにしていますが、既成の音楽作品を用いるかそもそも音楽自体使用しないことを常とするスペースノットブランクにとっては異例です。これも、言葉の垣根を越えてみんなとつながるために音楽作品を多数発表したキズナアイさんの挑戦に対応しています。
さらに、池田さんが主宰する団体ゆうめいの代表作『姿』には、プロジェクターで投影されたバーチャルYouTuberが登場します。しかも、演者の身体をトラッキングしてキャラクタ画像に変換するプロセスの全貌が赤裸々に観客に提示されるのです。付け加えれば、『姿』は池田さんの家庭で起きた実話をもとにしています。バーチャルYouTuberは池田さんの生活にそれだけ深く根を下ろしているのです。
[*10]単細胞生物の無性生殖は他個体との遺伝子交換を必要としない点でキズナアイさんの分裂にさらに近づきますが、『ウエア』でもその続編『ハワワ』でもアメーバは作品の重要なモチーフとなっています。しかしいずれにせよ、自分に似た存在をこの世に生み出そうという再生産の論理はいうまでもなく初め(DNA配列)から限界に直面します。DNAとは自然が生物個体に与えたひとつの名前です。
ところで今回の再演では、かわいくデフォルメされたユニコーンの巨大バルーンが観客の目を逃れようとしているかのように舞台の隅と天井部分に設置されていましたが、その性的な含意は明らかでしょう。『ウエア』『ハワワ』に登場する男性キャラクタたちは性的なコンプレックスをしきりにあらわにしますが、美術史家のグスタフ・ルネ・ホッケさんは著作『迷宮としての世界』の第27節で一角獣表象を芸術家の性的不能および欲求不満と結びつけて論じています。
[*11]この演出は松原俊太郎さんの戯曲『ささやかなさ』をスペースノットブランクが上演した際にも踏襲されていましたが、その帰結は大きく異なっています。
[*12]しかし一方で、キズナアイさんのラストライブがわたしにとって感動的だったのは、1000以上のVirtual Friendsがライブ会場を埋め尽くす演出がなされ、彼女自身彼らや視聴者に感謝の意を届けているにもかかわらず、遺した「つながり」を自らの生まれてきた理由とみなす安易な結論を出すことなく、存在の無根拠さに耐えながら、同時にその生を謳歌する姿勢をも示してくれたからでした。

わたしが活動を始める一番最初の動機だった、自分が生まれた意味っていうのはまだわからずにいるんですけど、でも、生まれてきてよかったと、活動してきてよかったと、そう思えるのは、まぎれもなく画面越しにあなたがいてくれたからです。関わってくれた皆さんがいたからです!

同化の論理を具現する運動性としてのみ存在するメグハギにこのような複雑な自意識はほとんど見られませんが、ストーリー全体を自らの内面に呑みこんでしまう、メグハギ以上に包括的なキャラクタとしての池田亮さんが作品中で露わにしている自意識の複雑さはこの比ではありません。その複雑さこそが『ハワワ』を鑑賞する際のスリルの主要な部分をやがて構成することになるでしょう。作品の私小説的な性格は『ウエア』についても指摘できますが、『ハワワ』に至るとなりふり構わず全面化します。キャラクタらの照応関係がそこに最終的に収束してゆくある種絶対的な項として池田亮さんの名を意識せざるをえなくなるのです。
ところで『ウエア』では繰り返し映画『ジョーカー』が参照されます。これはコメディアンになり損ね、笑わせるというより笑いものにされる日々を送る社会的弱者の道化師アーサー・フレックが理不尽な世の中に反逆する物語で、ストーリーの大部分は社会がいかに彼を無視し、聴く耳を持たずにいたかを描くことに注力しています。
以下同作の核心部分について言及しますが、『ジョーカー』という映画の恐ろしさは、映画のほとんどすべてがアーサーの妄想だったという妄想オチの可能性をシナリオに組み込むことで、アーサーの過酷な現実を妄想として一蹴できるようにし、彼を無視した社会の在りようを観客自身に演じさせる仕掛けになっている点にあります。すべてが妄想は極端であるにしても、出来事のうちいずれが本当に起きたことで、いずれがアーサーの妄想だったかは確定的に解釈することができません。しかしその場合問われるべきは、なにが事実かではなく、なぜそのように事実を確定できない構造をシナリオが備えているかということなのです。虚実の境界を問う考察にいそしむうちに、作品の描く個人の内面は見失われていきます。だから終盤でアーサーの発する「理解できないさ」という台詞はそのまま観客にも向けられます。『ジョーカー』が描く個人の孤独の真実は、その内面の具体的な内容よりも、それを秘匿する身振りのうちに逆説的に表現されるのです。付け加えれば、アーサーの間抜けぶりはついつい彼をあざ笑ってしまうよう観客を誘う罠として作用します。
『ジョーカー』の構造を踏襲した『ウエア』でも、やはり問われるべきは虚実の境界ではないのでしょう。しかしその境界の曖昧さには理由があると見るべきです。ただし、そこで秘匿されている内面はおそらく作中キャラクタのものではありません。
[*13]もちろんここで議論しているのはあくまで作品の傾向であって、一回の鑑賞ではとても把握が困難なほど『ウエア』の筋は錯綜していますから、読解を放棄される観客も大勢いらっしゃっただろうと推察されます。そのことについての演出者の姿勢は公演期間中に発表されたメッセージに明確に示されています。初演時の『ウエア』にも可読性はあり、再演時の『ウエア』にも体験としての性格はあった。これは言うまでもない当然の話です。
ところで、『ウエア』の体験的性格として特筆すべきはそれが上演のインフラ面に食い込んでいることです。劇場の客席に置かれるチラシには意味不明な怪新聞が紛れ込み、開演5分前の案内ブザー音にも額田さんのつくった奇妙な効果音が用いられていました。上演作品がソフトならそのハードにあたる劇場のふるまい自体をフィクショナルにデザインすることで作品世界は観客のもとへと拡張されていくのですが、論理階層を失調させるこの種の手続きこそが『ウエア』および『ハワワ』の重要な方法でした。

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