見出し画像

ルパン三世 「カリオストロの城」Ⅲ 君たちはどう生きるか

結局ルパンが伯爵に勝てなかったからクラリスを人質に奪われたし、指輪も奪われ、クラリスも落下した。

負けるというのはそういうことで、すべてを相手に奪われ、大事なものが危険に晒される。時には命も奪われる。

日本は戦争に負けて一度経験している。戦前生まれのパンチ先生はそれを知っている。だから何としてでも勝たなきゃいけない。大事なものを守るために。ルパンはそういう世界に生きている。


でもその伯爵の強さは、伯爵の狡さ、汚さとして描かれている。大人は汚くズルい。純真なルパンは先に指輪を置いて、相手を信じて譲ったのに。
裏切った伯爵の方が悪く、ルパンは騙された正義の味方・・・

だから伯爵が自滅しても自業自得。悪いヤツは戦わなくても自ら滅んでいく。戦う必要はない。正義は勝つ。平和が一番。そして美しい少女を愛でる(笑)


宮崎監督にかかると、ルパンの持っていたポリシーも文脈も見事に反転する。その見事さはあっぱれと言うしかない。


そして宮崎ルパンにその後の日本の姿が現れていると思うのは考えすぎだろうか・・・

元々欧米の象徴のようなキャラとして生まれたルパン。狡猾で抜け目なく、手段を選ばない。強い者に立ち向かい、戦いによってまた強くなって行く。銭形のような大人、公権力も恐れない。

宮崎監督はある意味ルパンを日本人的なキャラに生まれ変わらせた、戻したのかもしれない。

だからこの作品には他のどのルパンよりも、いまだにたくさんのフォロワーが生まれ続けるのだろう。


ルパンの時代は、男と男の対決で成長する、男が中心の時代で、女はそれに付随する。不二子はトロフィーワイフのようなもの。だからこそトロフィーにふさわしく、女というジェンダーの記号そのもの。

宮崎ルパンは伯爵との勝負を回避してクラリスを手に入れている。それはこの時代のスキームを脱構築したとも言えるかもしれない。女を男の勝負の報奨金として、モノとして扱わない。女は男の勝負のオマケに付いて来るものではない。

騙し合うのではなく、互いに助け合い求めあう。よりスピリチュアルな男女の関係は、クラリスという修道院上がりの少女の純粋さがあってこそ、ルパンのような悪党の心に響いたわけで、不二子のような「女」を利用し男を騙す相手では不可能ということ。



ただ、最近の宮崎監督の新作の「君たちはどう生きるか」というタイトルからも、戦後死にものぐるいで築き上げた昭和の繁栄が平成によって見事に失われた現実を前に、「カリオストロの城」で提示した思想は果たして正しかったのかという疑問が生まれる。


「君たちはどう生きるか」は80年前に書かれた本だという。宮崎監督が生涯をかけて否定して来た戦前の価値観に最後の作品で立ち戻るというのはどういうことなのか。


2011年以降、ルパンの新作が大量に製作され、原作への原点回帰のようなリバイバルブームを見せている。

それは、「カリオストロの城」で見せた宮崎監督の思想に対して原作者が「DEAD OR ALIVE」でアンチテーゼとして示したように、宮崎監督の時代とも言える平成が終わり、その呪縛も解け始めているのかもしれない。



画像1


宮崎監督の引退宣言後に一気にメジャー入りした新海誠監督の最新作「天気の子」が公開中。その作風から、宮崎監督の後継者として人気が高い。


ルパンの原作は18禁で、アニメも不二子だけでなく男たちもよく裸になってるのでエロも多い。ルパンダイブまである。でも、ジブリや新海監督作品のようなエロとは違って安心して楽しく観れる。むしろもっと・・・と期待してしまうくらい(笑)


もしかしたらこの監督たちの問題はロリでもなくエロでもなく、あまりにも主観的過ぎる視野の狭さなのかもしれない。それはよく批判される作風にも現れている。

同じエロでも痴漢犯罪者のような視点だから不快だし不安になる。しかも、その対象者は幼い女児や少女たち。

でもその視野の狭さは十代特有のものかもしれないし、人によっては一生持ち続けるものだから、わからない人はわからない。


宮崎監督の後継者のように見なされるのも、豊かなイマジネーションを重視するあまり、主観的なイメージの連続で物語性の乏しい傾向がよく似ているからだろう。

でもその豊かなイマジネーションが神話のような物語を生み、予言のように現実と強く結びついているから、強い支持を集めるのだと思う。



高畑勲を失った宮崎駿は、どこへ向かうのか

一方、高畑によれば、日本の多くのアニメーション映画は、観客を作品世界に巻き込むため、主人公だけに徹底的に「思い入れ」させる技法を発達させた。一見、観客と同じような凡人が非凡な力を発揮する。カメラを主人公のすぐ後ろにすえ、主人公が見ている光景をほぼそのまま観客が体験できるショットを多用する。観客は主人公と一体化し、きわめて主観的に世界を体験することになる――。
多くの人々が現実世界で「自分の主観からだけしか世界を観察せず、他者の視点を思いやれず、善悪を単純に判断している」ことが、様々な社会的対立や戦争を助長している。高畑の価値基準に照らせば、宮崎の映画は、他人の立場を思いやれない『思い入れ人間』を増やし、現実社会をより愚かにすることに手を貸していることになりかねないのだ。
宮崎は、そのすさまじい想像力と活動力によって、世界中の多くの人々を自作のとりこにしてきた。しかし、それは社会全体にとって真にポジティブな行為だったのだろうか。人々の目を現実から背けさせ、ファンタジーの世界に逃避させる効果しか持ち得なかったのではないか――。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?