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先生格差も生むコロナ新時代

娘の通っていた小学校で、図工の時間に彫刻刀指導のボランティアをしていた時のことだ。

当時広報委員も勤めていたので、記事を書くための覚書のつもりで黒板の写真を撮ったところ、先生がダーっと急いでこちらにやってきて、

「この黒板の写真は、絶対に広報誌に載せないでくださいね!」と慌てている。

載せるつもりで撮ったわけではないが、それにしてもどうしてそんなに慌てているのか見当もつかず、「大丈夫です、載せません。でもどうしてですか?」と聞いてみたところ、先生からはびっくりするような答えが返ってきた。

「めあて」を赤で囲っていないので、ダメなんです。

一瞬、意味がわからず、「は?」と聞き返してしまった。多分先生の目を、コンマ何秒かは見つめていたと思う。

私がよほどポカンとしていたのか、先生は根気よく教えてくださった。曰く、めあては赤いチョークで囲むという約束事があり、先生はそれを遵守しないといけないのだという。

それを聞いた途端、目の前の先生が本当に心底お気の毒になった。この方は毎日そんなことにエネルギーを使うために、一生懸命勉強して、難しい教員試験を受けて、高い志を持って教師になったわけではないだろうに。

この決まり事がこの学校だけなのか、それとも広く一般的なものなのかは、素人の私には計り知れぬことだけれど、「なんでそんなことまで決まってるの?」と思ってしまう私は、またもや世間一般とはズレているのだろうか?

常々、日本の先生は、楽しそうにご機嫌で仕事をしている方が少ないと思っていたけれど、こういったことだったのか!と、妙に納得した出来事だった。

仕事はクリエイティヴでなければ楽しいわけがない。どんなに志高く子供たちを導くために先生になったとしても、こんな小さな事までガチガチの規則に縛られていたら、先生の瞳が輝くわけがないじゃないか。

こんなに先生をがんじがらめにして、何が「子供が自ら自由に学ぶ教育」かと思うのだ。自ら学ぶ教育というなら、先生にも、自由に学んでそれを授業に生かしてもらえるような環境や時間を作るのが先ではないだろうか?

しかし反面、自由は先生にとって恐ろしいことでもあるのかもしれない。だって、「これさえやっていれば正解!」では済まなくなり、「そもそも自分は何するために先生になったんだろう?」という根源的な問いに行きついてしまうのだから。

コロナのせいで「今まで通り、前年度と同じことをやっていれば正解!」と言えなくなり、先生を取り巻く状況が急激に変わってしまった。

そんななかでも、規則、慣例という錦の御旗のもと全く変わらない先生もいれば、「何するために先生になったんだろう?」と、自らの本質的な在り方を探究し、大きくシフトチェンジする先生もいる。

教育だけでなく、先生の格差も生まれているのが、このコロナ新時代なのかもしれない。



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