悟りについて❷

こんにちはー。

今回は前回に引き継ぎ「悟りとは何か」のなかの、「真理ってなんぞや」についてお話しします。

まず、結論から申しますと「悟りとは「無」であることを知ること」です。

全く理解できないと思いますが、実際そうなんです。汗

では、なぜ今この世界が成立しているのでしょう。
まず、宇宙の始まりについて考えたいと思います。

宇宙の始まり

皆さんは「ビックバン」という言葉はご存知ですよね?
はじめは「無」からの「爆発」からの「宇宙で来ちゃったよ」っていうあれです。笑

しかし、それだけだと「ビックバン前の時間は?」とか「ビックバン前の空間は?」って話になるでしょ?

そもそも、宇宙が物質的に存在するということを前提にするから、なかなかしっくり来る答えが見つからないのです。

とは言え、我々が存在することは確かなはず。

それではまず、物質とは何かを考えてみましょう。
物質を構成するものは、細分化していくと元素記号で表される単位になります。
そして、その元素は原子と分子によって構成されます。
さらに原子は原子核と電子によって構成されます。
さらに原子核は中性子と陽子によって構成され・・・
そして現代の化学で見つかっている最小単位となる構成要素はクオークと呼ばれます。
このクオークをさらに細分化するとどの様になっているかは、現段階では把握できていません。

そして、この原子核と電子によって構成される原子ですが、なんと原子核とその周りを周回するように動く電子の間には隙間がある様なのです。
しかもその隙間、一つの原子を東京ドームと例えると、原子核がパチンコ玉程度の大きさで、電子が東京ドームの外周を周回している様なのです。
わかりますか?
どれだけ硬い金属も、隙間の無いような液体も、ミクロの単位で見れば、広大な隙間だらけだということです。
そして、今わかっている最小単位のクオークですら、科学的に最小であるとは立証できない様です。

じゃぁ、そもそも物質に最小単位があるの?というところを疑いたくなりますよね?

もう一つ、シュレディンガーの猫という思考実験のお話を聞いたことはありますか?
これは、生きた猫と、1/2の確率で放射性物質が放たれる装置を一緒に箱の中に入れて、箱をとじ、その外から観察する際に、中の猫が生きているか死んでいるかという実験を科学者たちが科学的な知識上で議論しあったところ、箱の中では、生きている猫と死んでいる猫という二つの状態が同時にある。という結論に達した様です。
我々からすれば、そんなの開けてみるまで分からんじゃん。という馬鹿げた話なんですが、科学的に、このどちらも存在するという結論を否定することができないようで・・・

更には二重スリット実験について・・・と言いたいところですが、いつまでも話の続きにたどり着けないので、検索してみてください。

それではこれから私の仮説についてお話ししたいと思います。
そもそも宇宙は誕生してないし、我々は存在すらしていない。物質も時間も全て幻想である。
これが、私の仮説であり、多くの人が辿り着いた仮説です。

そうは言っても、自分には五感があるし、時間だってただひたすら一方向に進んでいるじゃないか!と思うでしょう。

そこで、みんな想像しやすいように、僕なりのビックバンを説明しますね。

まず、無の状態。そこには色も形も音も空間も言語も時間も何もありません。
我々は目を使って空間を認識するので、空間がないという想像は出来なくなっていますが、例えとして真っ黒をイメージしてください。
そんな真っ黒な状態で、あなたの意識だけあったとします。
しかし、ここにはあなた自身の現在の人生はありません。また人であるという認識もできません。
あなた自身が存在しているという感覚だけがあります。
その状態を0次元と呼びましょう。
この0次元の状態では、物理的な制約はもちろん、時間的な制約もありません。意識上ではどんなことでも出来ます。
不可能は全くない状態ですが、時間も空間も認識できていない段階なので、逆に何をしたらいいのかも分からない状況です。
そこで、自己を認識するという作業に入ります。
自己を認識するには、自己ではないを認識する必要があります。そのために、「自己ではない」を作り出します。
すると、自己が自己であるように鏡のような存在を作り出しました。それは即座に永遠と繋がる合わせ鏡のような世界観。
ですが、結局のところ、それは自己の姿です。これを1次元と呼びましょう。
この1次元の状態では、自己の姿を鏡に映し出しているものが永遠とあるに過ぎないので、自己の姿に変化を加え、それを鏡に映し出しました。それぞれの鏡が同じようで全て違う鏡です。その全て違う鏡によって、自己の姿を確かめた状態を2次元と呼びましょう。
この2次元の状態で、初めて色や形を想像できる段階になりました。それでもやはり、どの鏡も自己が変化した姿であることに違いはないので「自己が変化している」を作り出します。この時に初めて時間の流れや空間や感覚など、全ての意識を作り出します。
そしてこの状態を3次元と呼びましょう。
この3次元の段階では、全ての因果が完成しており、あらゆる可能性はその結果とともに存在しています。
しかし、この段階においても、全ての存在は自己であることに違いはありません。
そこで、作り出した全ての因果に意識を向けた姿が、私であり、あなたやその他全ての存在や物質なのです。

もともと、全てを創造できる存在であった自己が、我々のような肉体を持ち思考する存在となっているので、因果の法則上、必要なものが全て想像されました。
そこで創造されたものは「今」というタイムライン上の位置付けであり、我々が認知し得る全ての存在・物質、更には、今にある為の過去までも創造しているのです。

つまり、過去が今にない以上、過去というものの存在は方便であり、そもそも存在しません。
過去の写真や、恐竜の化石というものは、今そこに過去としての存在があるとして、今認知できているものであり、そのものの実態が存在するということは、過去があったという証明にはならないということです。

故に、宇宙には始まりも終わりもなく「今」が「今」として存在するだけ。

時間や空間、感触、我々が認知し得る全てのものは、我々が我々「個としての存在」を認識するために、リアルに体感しているという、ある意味「錯覚」の様なものであるということです。

以上、これが宇宙の始まりであり、そもそも始まってもいないという、言語化上矛盾した僕なりの解釈でした。

次は、この真理の世界から見た、人それぞれの世界観というものをお話ししたいと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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