真理と摂理

宇宙には「真理」と「摂理」がある
科学で解き明かせないことも、この真理を使うことで矛盾なく説明できる様になる。これこそが世間で言われる「スピリチュアル」の真髄。
つまり「スピリチュアル」の本当の姿は「真理」そのものであり、究極を言えば善も悪もなく、自由そのもの。
宇宙の真理の中で、地球の中の「人間」という姿で存在するということは「究極の自由」の真理の中に、空間・時間・肉体・有限という制限のある世界を自ら選んで存在しているということ。
宇宙の真理そのものは、究極の自由であるがゆえ、我々人間が考え得る全ての概念は存在しない。それは、縦横高さからなる空間の概念や、時間の概念、さらに自分と他人やモノを分ける概念すらも存在しない。
そして、宇宙の真理の中に「大いなる自己」が存在する。これには様々な呼び方があって、神・アッラー・天之御中主神・ヤハウェ・真我・超意識などと呼ばれるもの。
「大いなる自己」は究極の自由で有り、また究極の無の状態である「真理」に「自己」という「意志」を持っている状態。
全ての概念がない真理の中に、ただ有るという意志。
そして「大いなる自己」は「創造」することによってあらゆる全ての概念や物質的なもの、物質的でないもの全てを生み出すことができる。
大いなる自己の状態では、創造したもの全てが存在する。そこには始まりも終わりもなく、大いなる自己が、自己を認識したと同時に、全てがそこにある。
この「大いなる自己」が有りたい姿、それは私自身で有りあなた自身、さらにこの地球上の全てのもので有り、宇宙そのもの、その全ての有りたい姿こそが宇宙の真理の中の「摂理」である。
「大いなる自己の有りたい姿」である「摂理」とは、全てが存在し続けるということ。
この摂理に反した時には、全ては存在しない。つまり「無」そのものである真理そのものを無いものにする。
しかし、我々が今、ここに存在する以上、この摂理に順応しているということになる。
全ての存在を認めることが摂理で有り、究極の「愛」とも呼べるであろう。

「摂理」によって「今ここ」に存在する意味
真理は究極の自由で有り、摂理によって全てを存在させている。
それでは、摂理によって我々が、「今ここ」に存在する意味を説明しよう。
我々、個人として存在しているものは、木に例えると、大いなる自己という木があり、その木の葉であり花である姿が我々個人である。
つまり、大いなる自己の状態から「私」という肉体を経験するために「今ここ」にあるということだ。
我々人類を含め、全宇宙全てのものは「大いなる自己」そのものである。この「大いなる自己」は、時間の概念が無い状態に「こう有りたい」という自己を作った。そして「大いなる自己」は、「こう有りたい」という自己として存在したものが宇宙全てであり、私であり、貴方である。
だから、我々が意識を変容して大いなる自己につながったときは、全てが自由で有り、欲しいものは全て手に入る。得たい能力も将来も全て自分のものにできる。しかし、大いなる自己として、私や貴方の肉体に宿った以上、私や貴方の人生を経験したいという意志が、そうさせないのである。
大いなる自己にとって、私や貴方の人生に起きる困難生苦や極楽天国と言った環境に対して良い悪いの思考はないからだ。
ただその全てを経験したいという意思で「今ここ」の「私」「貴方」に宿っている。
決してそうとも言えないが、わかりやすく例えるなら、我々がゲームをする感覚と似ているだろう。「無理ゲー」という超絶難易度の高いゲームに手を出すこともあれば、過去に何度もクリアした簡単なゲームに手を出すこともある。
ゲーム機には、リセットボタンが有り、何度もやり直せるが、我々にその保証はない。辛すぎて、今すぐにこのゲームを止めたいと思い、自殺したとしても「大いなる自己」の意識に戻った時に、その経験をしたくて始めた(生まれた)のに、なんで電源を切ったんだろうと、また同じゲームをするだけかもしれない。つまり、喜怒哀楽の感情を揺さぶる出来事によって左右されるゲームの主人公の極楽や困難全ては、エンターテイメントに過ぎないのである。
ただ、このゲームという解釈では、あまりにも人生を軽微しすぎるところが難点だ。実際は、一人一人の経験というものは「大いなる自己」と直結しており、たとえ些細な人生と思える人も、その一人の価値は宇宙の大きさに比例するということを付け加えておこう。
ネガティブ視する人に掘り下げて後述するが、数ある人の人生に、主役や脇役、価値を決めているのは「今ここ」を生きる我々であって、大いなる自己の視点から見ると、全て掛け替えのない、その人生なしにはこの宇宙は存在し得ないのだ。

時間の概念「現在・過去・未来」
摂理は、あらゆるものを存在させ、経験するために時間の概念を作り、我々を含め、少なくとも地球上の全ては時間の概念のもと、存在している。ここで、少なくとも地球上といったのには訳がある。
時間はもとより、有りとあらゆる概念は、我々地球人の平均的集合意識の決定により成り立っているものであるからだ。(集合意識については後述する)
つまり、我々が体験している時間という概念は、地球に生まれてくるにあたって、与えられた摂理であると言える。真理では時間も空間も概念がないので、大いなる自己の側からすれば、地球に生まれた意識の経験というステージで必要なルールの様なものだ。
我々にとって、時間というものは不可逆で有り、一方向にしか進まないというのが概念だ。しかしこの概念は、先述した通り、大いなる自己の状態では通用しない。大いなる自己が「こう有りたい」と意識した時に全てのタイムラインは存在する。スピリチュアルで言われる「アカシックレコード」の様に、我々個人の人生のエピソードはすでに仕上がっているということになる。そう考えると、我々には自由な意思はなく、全て予定通り、全て作られた映画を見る様な人生と捉えてしまう人もいるだろう。
しかし、真理について考えてみて欲しい。真理は究極の無で有り、究極の自由であるのだ。つまり、一人の人生の道筋「エピソード」は一つである必要はないということ。例えるなら「パラレルワールド」の様なものである。映画などで出てくるパラレルワールドは物質的で「パラレルワールドの自分」という様に、距離感がある様な解釈があるが、ここでいうパラレルワールドは、意識的なものだ。
人生の転機とも言える出来事は誰にでもあるだろう。その日その時、違う選択をしていたら、人生がどう変わっていただろう、というのは誰しも考え得ることだ。そして、大いなる自己側からすると実際にそのパラレルワールドは存在するということになる。
我々は「時間」という概念が当たり前過ぎて、日々疑うことなく過ごしているが、実際はこの瞬間ごとに意識のパラレルワールドを行き来している。また、そのパラレルワールドの数は無限である。
そして「現在」を構成するために必要な現象は、膨大な「過去」に蓄積されたデータによって成り立っている。さらに「現在」は、まだ見ぬ未来を構成するためにある。一見当たり前の様に感じられるが、大いなる自己の状態から整理すると、無限の未来の結果を構成する為に、現在が有り、現在を構成する為に選ばれた過去があるとも解釈できる。
つまり「今この瞬間を構成する為に、過去の出来事があった」ということだ。

矛盾のない真理
我々の世界において、我々の認知では一見「矛盾」していると思われることは多いだろう。しかし、真理そのものには一切の矛盾はないと断言する。宇宙の真理に摂理という意識があるという大いなる自己の状態では、全ての存在が完全で完璧であるということだ。例えば時間の概念において、一般的に言われるビックバンという宇宙の始まりでは、宇宙が存在する前の時間は?という矛盾が存在する。しかし「時間の概念」そのものが我々の地球のルールで有り、実態のない幻想と仮定するとどうだろう。膨大なパラレルワールドの情報は、大いなる自己が形成された瞬間に既にあり、大いなる自己から派生した地球ルールに時間という概念が存在するだけだとしたら、ビックバン仮説の前の時間というものは存在しなくなる。数字においても同じことが言えるだろう。我々は1+1=2の様に、数字は万国共通で有り、絶対的なものだと信じている。しかし、大いなる自己にとっては数字の概念はない。地球上の肉体という物質に宿っているというルールの中で数字が矛盾なく存在しているだけということであり、仮に物質が存在せずに「色」によって存在する世界に我々が有るとすれば、赤+青=紫という様に、数字の概念が通用しなくなる。我々の概念の外側を想像することは簡単なことではないが、同じ様に全ての「当たり前」と呼ばれている現象は、何一つ絶対ではなく、その「概念」のない世界、全てを認めた世界こそが絶対で矛盾がない真理で有ると言える。

意識とは
我々は、意識とは何かを再定義する必要がある。きっと多くの人が勘違いしているからだ。私は、本質的な個としての意識を持っている感覚があるのと無いのとでは、人生において大きく差が出てくると確信している。
まず、一般的に言われる顕在意識と潜在意識について説明しよう。我々が起きてから寝るまでの間、自分で自覚できる思考・行動・感情全てを顕在意識と呼び、その他の無自覚だが自分に関係するものを潜在意識と呼ぶ。この顕在意識と潜在意識のバランスは、よく氷山の図を用いられる様に、顕在意識は3〜10%で、氷山の海に浸かった部分で有る潜在意識が残りを占めると説明されている。つまり、我々は僅かな顕在意識のもと、日常を生きているという自覚を持っている。そして、潜在意識には心臓を常に動かしたり、無意識のうちにしている呼吸を制御したり、眠っている間の生命を維持したりと言った物質的な働きの他、過去の膨大な記憶を必要に応じて引き出したり、アイデアを紐付けたりと言った、意識的な働きを司っている。さらに、引き寄せの法則やスピリチュアルでは自分の体の範囲を超えて、顕在意識に作用しようとする働きすらも可能にしていると言われている。
以上が一般的な意識の解釈で有る。ここで私が提案したい、ちょっと変わった解釈の仕方を説明しよう。
まず、顕在意識・潜在意識という様に、一般的には明確な線引きがされている様に思うであろう。しかし、この線引きをなくしたらどうだろうか。私の考えを例えるなら、一次元上に有る直線の先端を、個としての意識、つまり顕在意識として捉え、直線自体を個に向かう大いなる自己からの意識そのものとして捉えるということだ。
我々が個として認識している「自分」というものは、全ての現象における最終判断をする最先端の針の先の矢印の様なものということだ。
つまり、我々の思考も感情も、目標も言動も呼吸も全て大いなる自己に繋がる意識であり、我々が個として存在する意義は、その大いなる自己が我々の肉体を通じて行える物事の最終判断をするということで有る。
例をいくつか挙げてみよう。
❶今歩いているとする。そろそろ疲れたなという感情と感覚が大いなる自己の設計図から放たれる。立ち止まるか、そのまま歩き続けるかを判断するのが個として存在する我々である。
❷最愛のペットを亡くしたとする。過去の膨大な記憶から悲しみという感情を大いなる自己が与えた。友達からは、きっと天国で幸せにしているよという言葉を、大いなる自己が引き合わせた。喪失感という感情に打ち拉がれるか、考え方を変えて前向きに思考するかの判断をするのが個として存在する我々で有る。
❸働いていた会社を、なんの前触れもなく突然解雇されたとする。大いなる自己が与えた常識という観念の中で不当な扱いを受けたとして、怒りに全力を使うか、大いなる自己が引き合わせたスピリチュアル的な思考によって、新しい出会いのキッカケだと捉えるかの判断をするのが個として存在する我々で有る。
つまり我々の意識というものには、感情や感覚、思考も全て大いなる自己から与えられたものであり「今ここ」の判断のみ、個としての意識を持っているということだ。
絶え間なく続く、うるさい脳内の独り言は、今の自分というものの意識状態を教えてくれているものであり、眠気は大いなる自己から、個としての自分の肉体を癒せという合図であったり、またはアイデアを夢の形で教えてくれるもので有るかもしれない。
そして、ここからが重要だ。我々の意識は一次元の最先端の様なものとは前述したが、この最先端が個であり、また一次元上の全ての意識は大いなる自己で有る。そして大いなる自己から派生している、個としての自分を認識している以上、本来、個としての我々と、大いなる自己との分け隔てすらも存在しないということになるのだ。
大いなる自己の全てを「私」と捉える事もできるし、一次元上の最先端のみを「私」と捉える事もできる。また自分の肉体の行動範囲における全ての現象を「私」と捉える事も出来るのだが、多くの人は、自分と認識している肉体の輪郭部分の内で交わされる感情や思考と行動、言動を自分として捉えて、言わば中途半端な場所に「私」を捉えているのではないだろうか。

宇宙の摂理に否定は存在しない
そもそも、否定の概念とは何か。我々が事象に対して否定をする時とは、その事象の存在を認めないという事だ。何かのアイデアを提案された時、それを否定するということは、そのアイデアの芽を紡ぎとって捨ててしまう様なもので有る。否定の概念の中には「不可能である」という「個」としての思い込みが内在されている。
それでは、宇宙の摂理に否定は存在しないとは、どういうことだろうか。究極の自由である宇宙の真理では、あらゆる可能性を具現化できる。どんなアイデアであろうが、関係なく全てを実現することができるのだ。我々は、常に概念の壁と壁の間で物事を考えてしまう為、壁によって「不可能」という概念を作り出してしまう。しかし、宇宙の真理が究極の自由である以上、摂理は全てを可能にする。つまり否定する必要性がないということだ。

宇宙の真理と我々の思考の関係性
「宇宙の真理は究極の自由である」ということは前述したが、実は宇宙の真理と我々の思考の在り方には深い関係性がある。
まず、宇宙は究極の自由であると同時に「無」でもあるということを理解してほしい。究極の自由である以上、思考は既に現実化しており、願いは常に叶っている。大いなる自己の「こう有りたい」という姿を常に具現化しているということだ。勘の良い方ならお気づきだろうが、大いなる自己の意志で、なんの思考もない状態、何も考えていない状態では、そのものが具現化されている為、全てが「無」の状態であると言える。何度も繰り返しになるが、宇宙そのものに時間の概念はない為、大いなる自己が思考を辞めた時には既に我々を初め、全宇宙は存在しなくなる。つまり、大いなる自己の意識は常に思考しているということになる。
「思考とは何か」について考えてみよう。あなたが何かを思考する時、言葉や景色、数式などを使う。そして、思考をずーっと続けていると、やがて疲れが出て脳を休めることになるだろう。つまり思考には原動力となるエネルギーが必要なのだ。人間の体には、エネルギーの補給のために食事をするが、エネルギーの本質とは何であろうか。ある説によれば、万物を構成するものには特有の振動数を持っていると言われている。それは周波数と言い換えることができるが、この周波数こそがエネルギーそのものなのである。例えばリンゴを食べるとしよう。その時、リンゴを構成する原子には、原子核と電子という構成要素がある。さらに原子核も陽子と中性子によって構成され、その陽子と中性子はクオークと呼ばれる素粒子によって構成されている。その素粒子は特定の振動数を持っている。つまり、物質の構成要素は素粒子の動きであり、この素粒子が振動を失うと、リンゴは物質的に存在しなくなる。そしてリンゴを食べる時、その素粒子の振動数を体内に受け入れ、あらゆるエネルギーとして使う様になっている。
この素粒子の振動数は食物や生物に限ったものではなく、宇宙を構成する全ての物質、非物質にある。ダイヤもコンクリートもそれぞれの振動数を持ち、また我々の思考や感情にすらも振動数は存在している。
つまり、宇宙の真理という究極の自由の中で、摂理は振動数という「動き」を使って存在しているのだ。そして究極の自由である以上、我々の様に何かからエネルギーを奪わないと成り立たないということはない。むしろ、宇宙の摂理は、常に我々の認知し得る限りの全ての存在に「動き」を送り続けていると解釈できる。
ここからが本題に入るのだが、宇宙が宇宙として存在するには「動き」が必要ということは、お分かり頂けたであろうか。
宇宙の真理は究極の自由であり、その中で大いなる自己は「動き」によって宇宙を成り立たせている。そして「動き」を止めた時には既に宇宙は「無」の状態となっている。
これを我々の思考に当てはめると、思考し続けている状態こそが「個」としての確立であり、思考を止めることで「個」としての存在でなくなる。しかし我々にとって思考をやめるということは非常に困難であり、常に雑念が沸く様にできている。仮に雑念を取っ払い、完全に思考を止めることができたとしても、この時間の概念がある以上、いずれ腹が減り、そのまま肉体の死を迎えるか、何か食べるという思考をすることになる。
よく瞑想で無の境地に行くという表現があるが、これは「個としての意識」から解放されて大いなる自己の意識に上昇するということである。そして先ほども述べた通り、やがてまた「個としての意識」に戻ってくるのだ。
宇宙の真理には善悪を含め、全ての概念は存在しないと前述したが、大いなる自己には、全ての概念がなくとも「有る・無い」の概念のみ存在する。宇宙が有る・宇宙が無い、思考が有る・思考が無い、そして有無の最終地点は「動き」そのものである。
我々にとって、ポジティブ思考とネガティブ思考について究極を考えるならば、それぞれの行き着く先は、ポジティブ思考は「全てが有る」ネガティブ思考は「全てが無い」ということになる。
宇宙的視点でいうポジティブとは「全てを認める」ことであり、反対にネガティブとは「全てを認めない」方向の思考である。言葉の性質上、ポジティブはネガティブを内在しているが、ネガティブはポジティブを内在することは無い。
つまり、ポジティブとネガティブの関係性は太極図の様には、ならないということになる。極論だが、ポジティブは「動き」そのものであり、ネガティブは「無」そのものである。

宇宙視点からみた我々の「善悪」とは
結論から言うと、善悪そのものに意味はなく、ただ「全てを認める」という「動き」の状態こそが、大いなる自己であり「摂理」である。
その中で我々人類は、誕生してから善悪という「二元性」に囚われてきた。(二元性は太極図そのものであり、陰と陽によって成立している。太極図が表すものは、陰は陽を一部含み、陽は陰を一部含む。そして双方が50:50のバランスで初めて太極図が完成する。)
しかし、善悪の二元性は常に「個」の対立であり、争いを生んできた。大抵の争いの本質は「正義感の対立」であり、個々の善悪の価値観の差によって生じる。しかし、宇宙の摂理からみると、物質界においては、善悪の判断を「有無」に委ねる方が自然では無いだろうか。
善悪に関しては、個々の判断に委ねられるが、存在の「有無」に関しては摂理として答えが決まっている。
宇宙の摂理に適応してさえいれば、無駄な争いも正義感も持つ必要はない。仮にも宇宙の有無に関して、有を善、無を悪とするならば、善が悪を内在し、悪が善を内在していない以上、太極図は成立せず、時間の概念がない「大いなる自己」が今ここに存在している以上、悪=矛盾ということになる。
そして、矛盾が存在できない宇宙の真理において完全なる悪は存在しないということになる。

二元性からの解放が意味するもの
近年、アセンションという言葉が一部でブームになったが、それは、この「二元性からの解放」を意図しているのではないだろうか。
数ある二元性の中でも先述した「善悪の二元性」について、個々の意識が変容することで大きな変化が起こるということだと私は解釈している。そして我々がこの時代に存在する事も、このアセンションの経験がメインテーマなのかもしれない。長い歴史の中で幾度の戦争を繰り返した地球上の人類だが、大いなる自己の粋な計らいからか、最終的に世界を終わらせるほどにまで成長した核兵器が開発された。これにより、国同士の争いは先述した「悪=矛盾」の境地に達したのだ。それは、長い善悪の対立の歴史にピリオドを打つきっかけとなった。しかし、我々個々の意識ではどうだろう。日常の社会生活において、善悪の二元性というものを大半の人が、まだ握り締めているのではないだろうか。
長い間培われた習慣による善悪であったり、記憶による感情から派生した個々の善悪というものが、未だ人類の二元性からの解放の足枷となっている。まずは身の回りで自分が善悪で判断していることはないか確かめてほしい。
そこに、習慣に紐づく善悪であったり、過去の記憶に紐づく善悪があるとすれば、それがあなたの足枷かもしれない。なぜなら、これからの時代は過去の時代と大きく変わってくるからだ。この情報化社会になり、人類が労働から解放されるのは時間の問題となっているのは皆薄々感づいてはいるだろう。これから来る時代に関しては詳しく後述するが、あまりネガティブ視するものではないことは確かだ。

集合意識というもの
先述した、ありとあらゆる概念を生み出した「集合意識」についてこれから述べていこう。
物質的でないものを説明するのは難しいが、まずはイメージして欲しい。ゼロ次元の一つの点を想像する。これは「大いなる自己」である。この大いなる自己を中心に無量大数の一次元の直線が出ている。この線の最先端が我々の「個としての意識」だ。
最先端である以上、他の線との距離は確実のあるのだが、図でみる様にある程度、大いなる自己に近づくと、線と線の距離は近くなっていく。そしてほぼ同じ線の様に見える部分、これが集合意識である。この集合意識は共通の意識を持っている意識体の様なものだ。実際は違うが、例えていうなら日本としての集合意識や、家族としての集合意識という様に、数が束になった状態を集合意識としている。
一般的な考えでは、様々な概念は、個々の意識の共通認識が作り出したものだと解釈するだろう。しかし先述した「我々の個々の意識は一次元の線の最先端」という考え方を用いてすると、大いなる自己が経験したい意識には、大まかな共通認識の部分を通って、我々の「個としての意識」があると解釈できる。
そして、この集合意識というものも、大いなる自己との明確な分け隔てがない為、中心(大いなる自己)から外側へと離れるにつれ、個としての意識と同様に概念が生まれている。つまり、集合意識というもの自体、まるで個の様な意識を持っているのだ。解りやすく例を挙げると、我々の個としての体、個としての意識すらも細胞全ての集合意識であるということだ。
つまりは、私たちの個々の意識も小宇宙の様なものである。
これから先は文章でも図でも説明できないところだが、あえて表現するならば、我々の意識しているものは常に一次元の最先端であり、且つ細胞一つ一つも同じ様な構造を持っている様なものである。
宇宙の仕組みを図解するならば、自然界におけるフラクタル構造が最も近いのではないだろうか。一部が全体と自己相似になっている図形であるが、大いなる自己から地球的集合意識、人類的集合意識、日本的集合意識、家族的集合意識、そして我々の肉体的集合意識という様に、全てを、この自己相似の体型と合わせてみれば良い。しかしながら、宇宙の真理とは、我々の次元とは別次元での理解になるので、必ずしもそうであるという形を表すことは出来ないのである。
集合意識について説明したが、全ての段階での意識状態に関して、我々の「死」の概念を照らし合わした人もいるだろう。地球的集合意識や民族的集合意識にも、我々と同じ様な意識状態があるとすれば、その意識が死を迎えたり、輪廻転生する様な概念はあるのかと。しかしこれに関しては「死」の概念はない。「死」の概念も「輪廻転生」の概念も我々の個として存在していると思っている肉体だけの概念である。

死とは
我々は時間に対して、概念があまりにも絶対的過ぎるので疑う余地すら持たない。その上で、死とは時間の概念のもと存在する。我々は時間と共に成長し、そして時間と共に老化していく。これは人類誕生から何万年もの歴史があろうとも覆りはしない。しかし、何度も話している通り、宇宙の真理に時間の概念は存在せず、さらに「死」という概念も存在しない。大いなる自己から派生している以上、この世界での肉体は姿を無くすが、我々の意識はどうだろうか。
まず、我々の個としての意識は、意識することによって生まれた執着であるということを理解して欲しい。我々は本来、個としての肉体によって、現実界に宿っているのと同時に、意識体として宇宙の真理の中を生きている。
そして、現実界の肉体では、その現実界の肉体のままで、その世界を楽しめる様に、宇宙の真理状態の(大いなる自己)としての記憶を用いないことを選択しているのだ。なぜ真理の記憶を用いないのかは、ゲームに例えると解りやすい。
ゲームの世界は進化が早い。はじめは完全なる二次元の画面上で縦か横の選択肢によってゲームを楽しんでいた。次第に進化するにつれ、二次元上に三次元と思わせる様な描画でゲームができる様になる。それがこの2020年代にはVRの技術が進化して、まるでゲームの中に入り込めているかの様に演出してくれる。この進化の行く末はどこまでいくのだろうか。おそらく、この「ゲーム」という存在は、現実とは異なった現実、つまり、違う人生を目指すのではないだろうか。エンターテイメント業界というものは、人々の人生の中で「日常ではない」という世界観を与える業界である。この「エンターテイメント=非日常」という感覚を、より強固なものにするには、人々の「没頭」という感覚を駆り立てることが求められる。より騎士になり切って、よりレーサーになり切って、より主人公になり切ることこそが、非日常をより楽しむことに繋がるであろう。このゲームの行く末は「映画 トータルリコール」の様に、完全にゲームであることを忘れさせることである。そして「人生のゲームの終わり=死」が、プレイヤーにとっては、最高の感動のシーンであるということだ。しかし、この宇宙の真理が開発したゲームはもっと芸が細かい。

死後の世界
実は人間は死後も、この「宇宙の真理のゲーム」は続いている。人は死後、その人が思い描いた通りの世界へ行くことになる。仏教の死後の世界観を信じた人は、三途の川を渡り、キリスト教を信じた人は空の上の天国に行くか、地獄に行くかの選択が待っているだろう。そして、この天国や地獄というものすらも「宇宙の真理のゲーム」であるということなのだ。
少し想像してみて欲しい。自分が思い描く「天国」を。
❶フワフワの雲の上に、聖なる神殿があって、そこには格式高い神々の暮らしが待っている。
❷死別した友や、最愛の人たちと再会し、幸せばかりの永遠の暮らしが待っている。
❸現実界で経験したあらゆる欲を果たせる場所。
例を出せばキリがないが、あなたの理想の天国は想像出来たであろうか。
そしてあなたは死後、あなたが今思い描いた様な天国に行くことになる。逆もまた然りで、地獄もまた、あなたが想像した通りの地獄である。
では「死後の世界」を心の底から否定し続けた人は、どうなるのだろうか。
その答えは「生前の意識状態であり続ける」というものだ。実際には人は死を迎え、肉体は消えるが、まるでそのまま現実が続いていると錯覚する様な夢をみている感覚に陥る。死んだことに気づかず、しかし誰も相手をしてくれない現実だ。「そんな現実なら、すぐに死んだと気づくだろう」とあなたは言うかもしれない。しかし少し考えてみて欲しい。夢を見ているとき、それが夢だと気づいている夢は滅多に見られないだろう。大抵の場合、夢を見ているときは、その夢がいくら構図がおかしくても、あなたは夢と気づかない。その感覚で現実界に存在し続けていると言うことだ。
だから、個としての意識で、現実界を彷徨う意識体が、人によっては幽霊の様に見えるのである。
しかし、そんな「浮遊霊」と呼ばれる意識体にも、人間としての概念がそのままあるので、時が経つにつれ、やがて自分の死を認識し、現実界を旅立つのである。
現実に留まる意識体については「映画 シックスセンス」が解りやすいだろう。
話を元に戻すが、天国を想像し、その通りの天国に行けたとしよう。思い描いたことが、全て体感できるし、手に入れることができる世界だ。想像したものは既に目の前にある。あなたは永遠にこの世界に留まることができるとしたらどうだろうか?
人間界には「飽きる」と言う感覚がある。免許をとって夢にまで見たマイカーを手にしても、ほんの数ヶ月もすれば、手にしたときの様なトキメキや新鮮さは多くの人が失っているだろう。人は「願望」の状態から「当たり前」の状態になった時「飽きる」と言う感覚を起こす。「飽きる」とは、その対象のものを「当たり前」と捉えることだ。よく「感謝」の対義語は「当たり前」と言われる様に「飽きる」とは「感謝」がない状態を指す。
今の我々の暮らしを考えてみて欲しい。この暮らしは百年前の人から見ると、正に夢の様な暮らしであろう。誰もが当たり前に最新技術の恩恵を受けているのだ。江戸時代の殿様が、真夏に氷を食べるには、高い山の穴倉に保管してあった氷をわざわざ運ばせて食べていたと言う、今では考えられない超贅沢品が、今となってはどこの家庭でも当たり前に食べられる。あなたは多くの技術者の存在によって出来た今の暮らしに日々感謝をしているだろうか。毎日洗濯機にありがとうと言い、毎日自動湯沸かし器にありがとうと言い、毎日車にありがとうと言うことができているだろうか?仮にできていたとしても、そこに、初めて手にしたときの感覚は残っているであろうか?
つまり、記憶というものは、多くの人にとって「飽きる」と言うものと直結していると言うことである。それは例え全てが思考と同時に具現化されている天国であっても同じことだ。

輪廻転生の考え方
先述した通り、大抵の「個としての意識体」は、過去の記憶によって「飽きる」という感覚を引き起こす。そして天国に飽きたときが記憶を消すときである。天国に飽きた時、人で有った頃の感覚を懐かしみ、もう一度、人生を体感したいと思えば、もう一度この世に生まれてくることができるだろう。人の人生はもういいと言い、全く別次元の何かを経験したいと思えば、まだ見ぬ宇宙人にでもなるかもしれない。時間の概念がない宇宙の真理においては、パラレルワールドの解釈を元に、過去に生まれることも可能だ。さらには、木々や土、水や動物にだって生まれることができるかもしれない。しかし、どの様なものに生まれるとしても、それは「新たな制限」を求めているに過ぎない。この「制限」は全てのエンターテイメントに通づるものであるが、結局は「制限」を楽しみに生まれる様なものだ。
これはきっと、自ら選んで地獄に行った人の意識体でも同じであろう。永遠の苦しみの地獄を想像した意識体も、時間の経過と共に苦しみにも飽きる。と言うか慣れる。そしてやがて「この永遠の苦しみは自ら生み出したものだ」と気づき、また何かに生まれることを選択するのかもしれない。
さらに、何に生まれ変わるでもなく、ただこの世を見守りたいと言う意識体もある。それは「守護霊」と言われたり「指導霊」と言われることもあるが、単に「浮遊霊」の場合もある。生まれ変わり、生きることが「プレイヤー」だとしたら、その試合をみている観客の様なものだ。時に観客はプレイヤーにアドバイスを与えることもあるが、直接的に試合に参加することは出来ない。よく「アイデアが降ってきた」と言う表現はきっと、この観客である「指導霊」からのアドバイスであろう。
いずれにしても、先述した全ての生まれ変わりった存在や霊の存在は、確立された「個としての意識」である。
つまり、「個である自分」に執着している状態だ。これは執着が悪いと言っているのではない。何度も言う様に、この宇宙の摂理では善悪はないからだ。
それでは「個としての自分」に執着がなくなる状況というのは、どういう状況だろうか。
ここでは、分かりやすく「自我意識」という言葉で説明する。
自我意識が無くなる状態には大きく分けて二通りある。
一つは、全てに興味関心を失った状態であるということ。そこには何の感情も存在しないことが前提だ。感情が少しでも存在していると言うことは「その現象に対して、私はこう思っている」という自我が存在する。これは、先述した「意識の最先端の意識」という考え方で行くと「思考する」という「動き」の選択をするか否かの最終判断であると言える。これにより、完全なる無感情(感情を受け入れない)の状態となり、執着のない「無我の境地」に達するということだ。
もう一つは、全てに関心があるという状態。これは少々分かりにくいと思うが、自我意識の拡大である。我々の人間の感覚でいうと、日常起きる出来事、目に入るもの全てに関心が持てる状態である。敢えて関心という言葉を使っているが、言い方を変えると「感謝」である。

本当の感謝の意味
あなたは感謝の意味を理解できているだろうか。何度も繰り返す様に、この宇宙の真理・摂理には善悪の判断がない。しかし、大抵の人は「感謝」という言葉を聞いて「感謝することは善いことだ」という様に、どこか「フワフワした善人」の様な感覚ではないだろうか。感謝の本質的な意味は、必ずしも感情に従うものではない。感謝の心が湧き上がると言った表現では、いかにも稀な出来事に対して発せられる様に感じるが、本当の感謝を会得した人は、常に善悪のない感謝状態なのである。
善悪のない感謝状態とは、どういった状態か。
我々は日々、幸せだと思える時に感謝の心を持つとのは、多くの人が理解できるであろう。しかし、日々の仕事のストレスや家庭のストレスにまで感謝の心を持つことが出来る人はどれくらいいるだろうか。
宇宙の摂理は、我々に全ての体験を提供している。普段我々が「個としての意志」で行った思考や行動も全て、宇宙の摂理によって成り立っているものだ。
宇宙の摂理である以上、それは動く設計図の様なもので、自分の身に起きる全ての現象は寸分狂わず設計図と一致している。つまり、何気ない日常の中で我々が意識したものは全て我々「個としての意識」にとって何一つ無駄のない、全て必要なものであるということだ。
しかし我々は日常において「無駄な時間を過ごした」とか「無駄なものを買ってしまった」と言った様に、当たり前の様に「無駄」は存在していると感じている。さらに、全ての現象であれば、通り過ぎる人や車、街中に貼ってあるチラシの全てや、溝に落ちた吸い殻にも意味があるのかと、疑問に思うだろう。
ここでもう一度思い出して欲しい。我々の「意識」とは最終決断をするだけのものということを。
つまり、我々には「時間」という概念が存在していて、その時間を「どの様に意識した時間」にするかの最終決断を連続的に行なっているということなのだ。
「生きる」という概念は過去にも未来にもなく、今現在、今ここにしかない。そして、まさに「今ここ」の意識状態が現実を幸にも不幸にもするのである。
無駄に思えたこと、無駄だと思う存在を捉えるということは、今の意識が「無駄」というものにフォーカスしているということに他ならない。逆に「無駄なものなど存在しない」という意識で「今ここ」を過ごすと、今まで無駄に思えていたものが、いかに無駄ではないかに気づく。その瞬間、意識は無駄なものが無駄でない証拠集めをし出し、本質的に無駄と感じるようなものは認知すら出来なくなる。
つまり、無駄なものなど存在しないということに意識を向けて、今ここを生きるだけで、その「今ここ」にある奇跡を体感するのだ。
出来事の善悪というものも、過去の悪い経験が材料となって今を作る事もあれば、逆もあるだろう。
我々にとって重要なことは「判断」による「経験そのもの」であって、その経験の捉え方という「判断」が、個としての意識の未来を変えることが出来る。また、過ぎ去った過去に対しても「捉え方」の判断によって変えることもできるのだ。
先述した通り、個としての意識が経験する宇宙の摂理の設計図は、パラレルワールドのように無限のパターンがある。
ゆえに、運命は有るとも言えるし、無限で有るがゆえ、ないとも言える。
過去と現在の経験の捉え方によって、無限の設計図のどれを選ぶか、という考え方は、多くの「引き寄せの法則」と一致しているだろう。
また、捉え方という判断によって、思うがままの人生を手に入れるには、経験をより詳細に把握し、一時的な感情の波に囚われない強い意志、つまり「判断力」を鍛えることが必要である。
判断力が鍛えられることによって、自分に都合の良いこと(善悪問わず)に対しては素直に受け入れ、都合の悪いことに対しても、判断力を使って瞬時に都合よく捉えることができる。
このように鍛え上げると、思考はよりスマートになり、隙が出来る。隙が出来ることで、その隙に対して都合の良い新たな思考が加わる。
これを繰り返していくと「個としての自分」に対する思考頻度は徐々に少なくなる。思考頻度の総数には限界があるので、隙の量だけ「個としての自分」の外側に意識を向けることが出来るようになる。結果として、「自と他」を分ける思考そのものがなくなる。
要するに「自分」として意識出来る範囲が広がっていくという訳だ。
感謝の状態とは、そのものに対してどれだけ関心を持てるかによって決まる。
例えばあなたが友人に料理を作ったとしよう。
その料理を食べた友人は、スマホを触りながら「おいしいね。ありがとう」と言ったとして、あなたはどう感じるだろうか。
感謝は言葉にするだけで良い、という事はよく言われる事だが、確かにその通りだ。
しかし、本来の感謝において、関心のない感謝を出したところで、それは必ずしも届くものではない。
道端に咲くタンポポの花を見て、綺麗だと思い、上を見上げれば気分が晴れ晴れするような青さの中を綿の雲が浮かんでいる。足は痛みもなく動き、身体を伝う汗は温度調節をしてくれている。脈打つ血流は常に身体を浄化してくれていて、今日という一日の時間は、このすべてを体感できる日なのだ。というように、自分の身に起こる現象全てに素直な関心を向けることで、当たり前の日常が感謝の一日に変わる。
しかし大抵の人は、往々にして考えても仕方のない過ぎ去った過去をいつまでも悔いたり、まだ起きてもいない未来の不安を想像によって現実化しようとしている。
それはそれで、その人にとって最も「動き」のない、ある意味良い人生であろう。しかしここで私が伝えたい事は、この矛盾が一切ない、宇宙の摂理と真理において、過去と未来に縛られて現実を苦しく生きることは、個としての意識において矛盾していないだろうか。
最も、苦しさを求めて生まれてきたと、断言する人にとっては最高に幸せな人生であろう。その場合、矛盾は起きない。
ただ、宇宙の摂理で矛盾がない以上、今を不幸に生きる事は、少なくともそれが「個としての意思」である事は確かである。
「感謝」とは、今この瞬間、この場所という、与えられたものに対しての「関心」の幅をどれだけ広げられるかによって決まる。
先述した「自我意識」がなくなる状態に達するもう一つの方法は正にこの、感謝によって今この瞬間が満たされ続けることにより、達成できる「大いなる自己」との融合である。

科学的根拠とは
大抵の人は、科学的根拠を信じて、物事を判断している。地球が丸いことを、科学が立証し、実際にロケットからみた地球の姿が丸かったという記録はきっと、確かなものだ。しかし、科学が「地球は丸いかもしれない」と言い出した頃は、誰も信じなかっただろう。
その当時の人々の大多数は、地球は平面であり、地の果てがあり、または大きな亀の上に生きているという考えを信じていた。それは、地に果てが有るか無いかは、大抵の人にとって、どうでも良いことだったからである。故に、宗教家や人に教える立場の人の言う空想の世界が、大抵の人の考えとなるということである。
ところで、我々にとって地球が丸いという真実は、生きる上で重要なことであろうか。もちろん、数ある仕事の中で、直接的に地球の丸さの立証が重要な仕事もあり、それに関わる人にとっては重要であろう。
ここで、とある仮説について考えて欲しい。見える世界について、我々の視角の範囲を超えた部分の世界は存在しているだろうか。
「シュレディンガーの猫」という思考実験についてはご存知の方も多いだろう。簡潔に説明すると、箱の中に50%の確率で猫を殺す仕組みを持った機械と、生きている猫を入れて、一定の時間が立った時、猫が死んでいるか生きているかという、何とも奇妙な実験であるこの実験については思考上の実験であり、実際に残虐な猫の殺害は行われていないのでご安心を。
この実験を行った理論物理学者の、エルヴィン・シュレディンガーが伝えたかったことは何か。それは、箱を開けて実際に観測するまで、中の猫が生きているか死んでいるか分からないと言う簡単な答えでは無い。中には生きている猫と、死んでいる猫が同時に存在すると言う、さらに訳の分からない答えを伝えたかったのである。実際には、シュレディンガーは「そんなこと、ある訳ないだろう」と言うことを言いたかった。これに関しては、マクロの世界とミクロの世界の不確実性に対して否定するための思考実験であったと言うことだ。
少し話がずれたが、今の科学では、このシュレディンガーの猫について、観測した瞬間に生死が決まる。つまり、観測するまでは、生きている猫と死んでいる猫が同時に存在すると言う結果が主流である。(詳しいことは是非、インターネットで検索して欲しい)
このことから、先ほどの視角の外側の世界が存在するか否かについて、存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。むしろ、存在している世界と、存在しない「無」が同時に存在していると仮定してもおかしくはないと言うことになる。
前置きが長くなったが、何度も言う「宇宙の真理と摂理」の観点から、このことを説明すると、我々は宇宙の真理である究極の自由の世界から、大いなる自己によって生み出された摂理の中を、大いなる自己から派生した個としての意識によって、現実を体感している。それは、ゼロ次元に存在する大いなる自己が、我々に三次元空間と言う摂理を与え、その与えられた想像の世界を生きていると言うことであり、我々が体感する世界は想像上の世界であると言うことだ。
つまり、我々が視覚によって存在を確認できるものは、そのものが存在していると言う思い込みであり、視角の範囲外ではあるが触れるものに関しては、触っていると言う「実感」によって、その対象物が有ると言う思い込みかも知れない。
では二人の場合はどうだろうか。その場合は、二つの視角や実感によって共通して認識できる部分が存在していて、それ以外の世界は存在しないという解釈もできるが、実は二人で認識しているという事すらも幻想であり、この宇宙には私のみが存在していて、周りの人や世界中の人々は幻想であるという様な大変「危険」な思考をすることもできるだろう。
つまり、我々が認知できるもの、それは目の前にいる人や物質だけではなく、過去の歴史やテレビの画面、電話の話し相手や夢に出てくる友人など、全ては不確定要素であるということだ。
我々は、江戸時代の人物とコミュニケーションをとることは出来ない。江戸時代に何があって、どういう人物がいて、という過去の現象は、実在するものや語り継がれた話によって想像はできるものの、今この瞬間においては、江戸時代というものは存在しない。
「世界五分前仮説」はご存知だろうか。この世界は常に5分前に作られたかもしれないという、イギリスの哲学者による仮説である。
我々の生まれた時からの記憶、国の歴史、すべての記憶は僅か5分前に何者かによって作られたものが、今の我々の脳にインプットされているというものだ。
この「5分前」には特に意味は無いようだから、1時間前でも1年前でも同様である。
一見オカルトのような怪しい仮説だが、我々は最先端の科学を用いても、この仮説を完全に否定する事はできない。
科学者を侮る訳ではないが、科学とはこのような仮説を否定することすらも出来ないのである。
もちろん、この本に書いてある殆どの事は、現代科学で立証する事は不可能だ。しかし、科学によってこの本に書いてある内容を否定する事は出来ないのも確かである。
つまり、科学的根拠を信じ、科学的根拠のないものを信じない事は、実に狭い世界観の中で生きるようなものだ。
かつて宗教が指針となった時代があり、科学はそれを否定した。しかし、今度は科学という名の宗教を信じている様なもの。それは、いかに現代人が物事に善悪、正負をつけているかという証拠にもなるであろう。

宇宙の創造と個の意識の関係性
時間の概念が存在しない宇宙の真理の中で、あらゆる不確実性を矛盾なく説明するものが摂理である。
我々の視点からこの宇宙の仕組みを矛盾なく説明することは不可能に近い。なぜなら、我々の大抵の意識は科学に依存しているからだ。我々が縦横高さからなる3次元空間の概念と、時間の不可逆性を当たり前のものと信じている状態では、その概念の外側は体感すること以前に想像することすら難しいからである。
しかし、本書で冒頭から述べている、究極の自由とは何かを考えた時に、我々が当たり前として捉えている概念が、概念ではなく制限であることに気づくだろう。
宇宙の創造と個の意識の関係性を知る上で、まず考えて欲しいことは「なぜ、この当たり前の世界を自ら創造し、自ら体験しているのか」である。
ここで、あなたに一つの思考実験をして欲しい。とは言っても、そう難しいことはない。頭の中で、宇宙を想像してみるということをこれからして行こう。
まず大前提に、完全なる「無」の状態であることが必要だ。我々は目を瞑ることで、物質の形を確認することが出来なくなる。真っ暗な部屋で目を瞑るか、アイマスクが有れば良い。暗い部屋で、目を瞑るということは、量子力学的に「光は粒子である」という観点からすると、光の存在を確認出来ないということになる。つまり「無」の状態とは、光がない暗闇であり、色で表す場合は「黒」ということになる。
まず、この真っ暗な世界にあなたの意識だけがいる状態を想像して欲しい。この真っ暗な世界は、冒頭から述べている「宇宙の真理」である。
宇宙の真理は完全なる絶対的自由空間だ。そもそも全ての概念がない以上、空間という概念すらもないが、ここではわかりやすく、空間と述べている。全ての概念がない以上、あなたの今持っている記憶も知識も全てない。なぜなら、記憶や知識というものは全て何らかの概念によって形成されているからだ。
真っ暗な世界は縦横高さの次元も存在しない。そんな「完全なる無」の世界で、あなたは存在している。完全なる無であるが故、感覚という概念が存在しない。狭さや広さ、暑さや寒さ、匂いや音も存在しない。完全なる無であるが故、感情すらも存在しない。もちろん、あなた自身の形も記憶も何もかも存在しないという状態から創造に入っていこう。
真っ暗な空間の中には、意識だけが存在している。あなたは、その「意識」である。まず初めに、意識が有るという確信を持つことが出来た。次に、意識は「どこに」有るかを確かめたかった。その為に、対極を作った。闇の中であるものとは、光であった。意識は光を作った。とは言っても、我々の認知する光ではない。この状態では、ゼロ次元において空間としての闇の中で認知できるもの。例えていうなら、黒い紙に対極の白の点を書く様なものである。これによって、光として存在する意識であることを認知した。次に、光の存在である意識は、動きを試みた。この時点で空間という概念が必要となり、3次元の概念が成立した。この段階までを「大いなる自己」として捉えて欲しい。そして次に、分離を試みた。「大いなる自己」としての意識は二つに分かれた。これは、小さな子供が人形相手におままごとをする様なものだ。自分の中に二人の自分を準備し、対話している様なものである。この分裂に、どちらが主体というものはない。分裂した意識体は、それぞれが個であり、それぞれが大いなる自己である。これは、分裂した意識体に、それぞれ「左」「右」という名をつけるとすれば、左としての大いなる自己、右としての大いなる自己という二つに意識体があることになる。分裂した意識体は、「大いなる自己」の側面を持ちながらにして、それぞれ分裂を繰り返していく。これは、例えるならビックバンそのもので、意識上のビックバンと言えるであろう。無限に広がった意識体は、それぞれが「大いなる自己」としての意識を持ちながらにして、それぞれの意識を兼ね備えている。この段階では時間の概念がなく、思考したものは既にそこにあることになる。例えば「広い大地に青空と大陽があり、雲が浮かんでいて」といった様な風景を想像して見ると、そこには時間の概念もなく、想像上で風景が出来上がっているはずだ。過去の記憶というものも、瞬時に脳内で組み上げることが、出来るであろう。これと同じ様に、思考の段階では特に時間の概念は必要ないのである。無限に分裂した意識体は、意識体同士で関係性を持つ様になる。この段階では、意識体はただ無秩序に蠢き、分裂と統合を繰り返す様になる。また、物質的な衝突と言った概念はないが、同じ位置にある時に統合するかしないかの選択がある状態である。統合する意識体は、同士で集まり、光の存在として、より強い光を放つ様になる。統合しない意識体は、統合しない様に間を掻い潜る様になり、自然と意識同士の流れに秩序が生まれる。描画するなら、地球の創世記の様に、大量の隕石が集まったものが地球となった様なものである。そしていくつもの意識の集合体が出来上がり、大いなる自己としての意識を保ったまま、それぞれの意識体の集合体が創造を始める。この段階において、我々の共通認識に近いものが形成される。人は人のように、動植物は動植物のように表されるという事である。形成されるすべてのものは意識によって形成され、各々の意識は各々の役割を務めるようになる。これは、大いなる自己としての意識がつながっている為、動的な意識体は動的なもののイメージとして、静的な意識体は静的なもののイメージとして、役割を演じているようなものである。ただ、この状態においても、明確な分け隔てがある訳ではなく、光の集まりがそのもののように形作られているような光景である。
意識体に形の概念が生まれ、名もなき形の意識体は様々に個性的なものとなっていく。「動き」は更に別の「動き」を求める。それは素粒子が「動き」そのものであるように、色や性質を作って行った。
時間の概念がない状態で「動き」を解釈するのも難しいが、動きそのものは、脳内でも即座にイメージすることが出来る。つまり、動きそのものの概念には時間は存在しないということになる。この様に、万物のイメージは完成される。
この段階では完成されたイメージだけがあり、そこにはまだ、我々の体感している三次元空間は存在していない。
つまり、我々が目を閉じて想像できている世界、そのものである。そして、想像の世界は根本の「動き」によって常に変化をしている。
前述した統合する意識体によって全てのイメージは完成するが、統合しない意識体によって複数の統合した意識体を分離に導いている。この統合した意識体は、フラクタル構造によって、それぞれの階層で「個としての意識」となっている。と、ここで既に個としての意識体にたどり着いてしまったが、まだ時間の概念や現在の我々の話には辿り着いてはいないので、もう少し読み進めて欲しい。
万物のイメージとして出来上がった「無限の統合した意識体」の数々は、常に変化している。そしてイメージが重なり合う度に「統合した意識体」同士の統合、不統合、分離を繰り返している。統合した意識体には「個としての意識」があるため、統合、不統合、分離を選ぶことが出来る。
二つの統合した意識体のうち、一つは統合を望みもう一つは不統合を望んでいる場合、そこに感情が生まれる。
なぜなら、統合を意識して、統合できないという相違が起きるからである。本来、究極の自由であるはずの宇宙の真理の中で、望んだものは全て既に手にすることが可能なはずなのに、意識体は望み通りにならないという矛盾が起きていることになる。
しかし、ここで考えて欲しい。意識体は本来、望んだものは全て手の内にあるのである。ここでは「たまたま」同じ情報(想像上の空間)の範囲内に存在した為、望みが叶わなかったのである。しかし、別の情報を自ら作り出して、自らそこに飛び込めば、全ては思い通りになるという訳だ。
つまり、想像上の世界において、思考と現実(想像上の)の矛盾というものは「思い込み」によって作られた。
ここで「感情」「現象」全ては「思考」による「思い込み」によって作られる様になるのである。
現象は意識体によって作られる。作られた現象は別の意識体と共有することも出来る。しかし、現象を想像した意識体の意志は他の意識体の影響を受けない。つまり、他の意識体の現象の範囲に入り込み、影響を受けることは、入り込んでおいて、思い通りにならないという、矛盾を自ら作り出したことになる。そして、この「矛盾を作り出す」という作業こそが、全ての成り立ちであると言えるのだ。
矛盾を作り出す作業とは、先ほどの例の様に、完全なる自由に対し、制限を生み出していく作業である。
そして、この「矛盾・制限」は大いなる自己の意識から離れていくことになる。矛盾・制限を次から次へと生み出した意識体を「個の意識体」とするならば、大いなる自己から個の意識体は認知出来るが、個の意識体から大いなる自己は認知できなくなっていく。
なぜなら、意識は集中することが出来るからだ。
大いなる自己は、意識を集中することなく、全てを均等に見渡すことが出来る状態。しかし、個の意識体は、何か集中するものを探している。
それは、矛盾と制限を繰り返した結果、目線がそちらに向いていると言うことである。
全方位を見渡すには、なにかを見ようとせず、何かを感じようともせず、ただ有るがままを受け入れると言う姿勢。少しでも何かに意識が向いた途端、そちらの方へ集中してしまうのだ。
本来、大いなる自己の状態から、意識が拡散される時、全ての意識体は自分の内に望みを持ち、その現象を生み出せる。
しかし、自分の内に望みを持たずして、他の意識体の現象を自分に反映させる、あえて言うならば「他人任せ」な望みを持った時、その意識体によって矛盾が生み出される。これだけ聞けば、個の意識体はネガティブな感情によって生み出される様に聞こえるかもしれないが、実際はそうではない。そもそも「矛盾」という言葉をネガティブ視しているからではないであろうか。望んでいない状態とは「望んでいない悪い状態」と「望んでいない良い状態」があることを理解すれば良い。大いなる自己の意識状態では善も悪もないが。
こうやって、意識体は大いなる自己から「矛盾」という壁の様な「概念」を作り続けることによって、「個としての意識体」となっていく。
時間の概念も空間の概念も大いなる自己の意識から壁を作ることによって生まれたものである。

運命とアルゴリズム
運命の解釈は人によって様々であろう。そもそも運命の有無はよく議論されるが、私は「運命」は有ると断言する。
まずは簡単な話、あなたが生まれた日、生まれた時刻、1秒でも前後していたら、すでにあなたでは無いということだ。99,999999・・・%同じだとしても、決してあなたでは無い。なぜなら、この一瞬一瞬でも細胞単位で変化しているし、外気温や湿度もごくわずかに差は出ている。母親のメンタルもわずかに変化し、周囲の環境がほんの僅かでも違いがあれば、すでに「今」のあなたは存在しない。
つまり、あなたはその「一瞬」を選んで、母親の体内から出てきたのである。もっと言えば、一度の射精で数億の精子が存在する中の一つの精子を選んで来たし、さらに卵子へ到達するタイミングにも先程の例と同様、寸分狂えば別のあなたになっている。
「今」のあなたが、あなたで有る以上、過去に起きた全ての事象は、時間軸の概念を外してしまえば「運命」以外の何ものでも無い。
運命についてわかりやすく例えるならば、計算機だ。例えば、電卓に3という数字を押し、次に+を押す。これが過去から現在のあなただとしたら、次に6=を押すか、3=を押すか、10000=を押すかの選択が「今」のあなたである。そしてその答えは未来で有る。あなたが仮に3=と押した場合、押すと同時に答えは6となる。この時、あなたがキーを押す寸前の状態では、すでに電卓の桁数分の未来が存在していることはお分かり頂けるであろうか。さらに、あなたが3=を押して答えが6となった時、6=を押して答えが9となっている状態がパラレルワールドで有る。
ここで、輪廻転生の「因果」についても考えてみよう。よく言われる「前世の因果」という事象は、生まれてくる時に前世の自分の行いや感情、周囲から受けた影響を踏まえ「次に生まれる時は、こんな人生のお勉強をしよう」とか「あんな人生を楽しもう」といった具合に、その人生が歩めそうな人として生まれてくる。この例を電卓に例えると「1+2+3+4+5=15」の人生を選ぶとする。ある程度人生を歩み「1+2+3=6」までが完成した時、次に「+4」を押す様に思考や現象が働きかける。そこで「+6」を押すと、12となり、運命からずれるので、次に「+3」を押す様に思考や現象が働きかける。場合によっては「+10」を押してしまって、次に「ー1」を押すこともある。もしくは、15になる人生を選んだが、現実界において思考が変わり「30になりたい」という意思を持った場合、いきなり+20を押して近づけようとするかも知れない。
ここで私が伝えたいことは、思考や現象が導く通りに人生を歩み15に近い答えを得る人生も、途中から30に変えたいという意思のもと、30に近い答えを得る人生も、全てのルートに答えが既に出ているということである。
答えとは即ち、その現象が用意されているということだ。しかし人は、自分が想像した人生は、既に用意されていることを知らずに、日々の思考=想像をして、夢を現実にすることを諦め、自分の内側の声に耳を貸そうとしない。
話を進めよう。先述した通り、運命は今この瞬間のあなたを軸に無限に広がり、無限通りの答えが待っていることはお分かり頂けただろうか。ここで、あなたが最終的に「幸せ」な人生を送りたいと思い、今の人生を歩んでいるとしよう。その答えが「15」だったとして「+」がポジティブな道筋「ー」がネガティブな道筋とする。さらに、15より上回る場合は「もっと幸せ」だったとしよう。前世の因果を踏まえ「1+2+3+4ー2+6+1=15」という運命を軸に生まれる。ここで「ー2」の道筋が病気や事故だったとしよう。順調に歩んだ人生を事故によって会社を辞めざるおえない状況になった。思考や現象はあなたを支えようと、様々なアイデアを与える。しかし、あなたは行動に移す事なく、次に「ー10」の道筋を歩む。しかしここでも、思考や現象は+12を実現させるためにアイデアを与える。それが一冊の本かも知れないし、友人と会って話をする事かも知れない。ここで、あなたはアイデアで閃いた友人にコンタクトをとり、会うことにした。そこで友人に励まされ、今のあなたでも出来る仕事を紹介してくれた。そしてあなたは励み、思いも寄らないチャンスを掴み結果として「15」の人生を経験できた。
また「−2」を生んだ事故によって、退屈だった会社を辞める事ができ、前から夢見ていた執筆活動に励んだ結果−2が+2となって結果的に「17」の人生を手にした。
この例では様々な事象が考えられ「−10」になった時点でも動こうとせず、さらに「ー10」を手にして「−12」という結果を招くこともある。
また、逆に前世で理解できなかった人の苦しみを知るために「ー10」の人生を歩むことを選んで生まれてきたとしよう。この場合も、途中であまりの苦しさに「豊かな人生」とは何か、「幸せとは何か」について考える様になり、そこで浮かぶアイデアを即座に行動に移していった時には結果として「+100」の大成功を収めるうことになったという人生もあるだろう。
つまり、持って生まれた運命があり、人生を歩む途中で+にもーにも変えていける。そしてすべての結果が存在するということだ。
ここで先述した「最先端の意識」を思い出して欲しい。我々の存在は思考にも感情にもなく、ただその決定を下す「一次元上の最先端」でしか無いということである。思考・想像・アイデア・感情・記憶全ては与えられるものであるということだ。
我々の人生の中で、この一瞬一瞬は全て「判断」の連続であると言える。しかし、特に意識の向いていないものは「アルゴリズム」によって、ある程度筋書き通りに管理されている。アリゴリズムとは、簡単に言えば「目的に対する最短のプログラム」の様なものだ。例えば人生において、呼吸は必要なものである。呼吸は横隔膜を操り、息を吸う、息を吐く、といった動作をしなければならい。この動作に常に意識的判断を持っていると、我々は呼吸するだけの存在になり得るだろう。ここで、我々が生命活動を維持する「目的」に対して「呼吸」を使っているならば、特に意識を持たなくても呼吸できる様にプログラムをしておこうというのがアルゴリズムである。同じ様に、無意識でできていること、心臓の鼓動や、食物の分解といった体の内面的なことや、目的地まで歩くときの動作やご飯を食べ進めるときの端の動作など、特に意識をもたずに行動できていることは、アルゴリズムというプログラムだといっていいだろう。アルゴリズムは我々が生命活動を維持するために必要不可欠ではあるが、日常の大半をアルゴリズムに任せて生きていくのは少々勿体ないと思う。
朝起きて朝ごはんを食べ、通勤の満員電車に揺られ、毎日同じ顔ぶれの中で仕事をし、帰って風呂に入って晩ご飯を食べて寝るだけの日常と、たまの日曜日に友人と飲みに行くことが唯一の楽しみ、口癖は「眠い・しんどい・めんどくさい」といった人は特に「アルゴリズムが主体」である。
大抵のことは「アルゴリズム」によってこなせる。なぜなら、日々の人との会話やパソコン作業、風呂に入って体を洗ったり、テレビをつけたりといった「作業」は、過去の経験の積み重ねで、それに応じた動作や答えを持っているからだ。
そしてこのアルゴリズムの渦にハマった人は「変化」に関連したものを嫌い、常識の範疇でその場その場を「アルゴリズム」によってやり過ごす人生を意図せずに好む様になる。
しかしこの様な「アルゴリズム人(失礼)」にも常にアルゴリズムからの脱却のルートは用意されている。それは「関心」を持たないと気づくことができないところにある。満員電車の中で、近くの人の表情に関心をもてば「自分もこの人たちと同じで疲れた顔をしているなー」とか、会社の運営体制に関心を持てば「ここをもっとこうやったらいいのに、馬鹿だなー」という様に、気づきが増える。初めのうちは、ただの愚痴にも満たない愚痴だが、そのうちエスカレートしていくことになる。先程の口癖「眠い・しんどい・めんどくさい」にどんどん付け加えられる様になる。「いったい俺は何をやっているんだ・なんで毎日こうもストレスが続くんだ・人生ってなんだ」そして「こんな会社辞めてやる・もう限界だ・バカバカしい」に変わっていく。これこそが現状の「アルゴリズムが主体の人生」からの脱却であり、ーから+に転じる「アイデア」なのである。
あとは素直にアイデアを実行に移す「判断」が出来れば、それをきっかけにいくらでも人生を良くしていくことができる。
究極を言えば、全ての事象はアルゴリズムという「最効率化されたデータ」によって決まっている。ただ、今この瞬間から未来軸に対しての「効率化されたデータという運命」は無限大にあり、次の瞬間の未来軸に対しても無限大なのである。
つまり、未来は決まっているとも言えるし、未確定とも言える。無限をどう解釈するかだ。
ここで「運命」について再定義する。運命とは「最も効率化されたシナリオというプログラム」故に「アルゴリズム」である。そして運命は自分の「関心」の持ち方次第で思い通りのアルゴリズムを引き寄せることができるのである。

アルゴリズムという別視点の理解を深めた思考法
先述の通り、我々の未来は無限の上で決まっている。そして、共通の認識を持った人同士が同じ世界を歩んでいるのだ。しかし我々は自分と他人を区別した上で世界を把握している。この世のすべては「データ」であり、大いなる自己としての私が、私という体で世界を体験している。
そして他人とは、同じ時間を共有する大いなる自己の別の姿である。
今この本を読んでいるあなたは、自分という「意識」を持っているだろう。今この本を書いている私自身も同じ様に「自分」という意識で「今」を生きている。そして空間も物質もすべては大いなる自己であり、大いなる自己によって生み出された「アルゴリズム」に沿って行動している。
ここで極端な例をあげよう。以降の文章はあくまでも例であり、私を傲慢な人間だという様な勘違いはしないで頂きたい。
・・・この世界は、大いなる自己であり神である私が、私という肉体に宿り、私が意識を向けることのできるすべてのものは、私のために、私自身が作り上げたものである。故に他人の存在は虚像でしかなく、すべては私が望んで私でいられるためのデータなのだ。この宇宙に意識を持っているのは私だけであり、万物は私が作り上げたデータである。目の前で転んで泣いている子供ですらも、その子供に意識はなく、その事象は私が作り上げた映画のワンシーンの様なものでしかない。私が誰かと話したり、愛しあったり、喧嘩したりすることも、すべては私がゲームを楽しむためのもので「記憶を消した私」が本気でゲームを楽しめる様に、私が作り上げた映画のワンシーンでしかないのである・・・
あなたは、どう感じたであろうか。人それぞれ感じることは違えど、少なくともあなたは「私は私としての意識があるし、虚像などではない」と言うだろう。それでは先程の例の「私」を「あなた」に言い換えてみて欲しい。人によっては恐怖を感じるかも知れないが、真理の観点からすれば、決して間違いではないとわかるだろう。
実際、個という存在は大いなる自己そのものである為、この様な傲慢な解釈も通用しないことはないのである。
つまり我々、個としての存在が大いなる自己と直接的に繋がっており、個として自ら体験する全ての事象を作り出している。そして、自ら作り出している以上、この世で体験する全ての事象は幻であるという観点も成り立つと言うことだ。
それでは、このある意味特殊な観点から、具体的な世界観を説明していこう。
まず初めに、目で感じることのできる世界は、視界の範囲内である。これは所謂「シュレディンガーの猫」の応用版の様なもので、我々が観測していない、つまり目視して、その光景を確認していない状態では、視界の範囲外は起こりうる全ての現象が同時に存在していると言うことである。または、未確定である以上、存在していない「無」の状態であるともいえる。
つまり、あなたの頭の後ろの光景は、鏡で確認しない限りは存在していないか、全ての可能性が存在しているかのどちらかである。ここであなたは「そうは言っても、音や感触、気配があるじゃないか。と言うことは、特定の事象があるはずだ」と言うかも知れない。しかし、それはあくまでも、音や感触、気配があるだけのことであり、そのものが存在する証明にはならないのである。
つぎに、あなたに関係する全ての事象は、あなた自身が創り出している。それは、人でも物でも動物でも、あなたが認知することが出来る全ての事象である。あなたは現在この本を読んでいる。つまり、この本は私が書いているが、この本を書いている私を作っているのはあなたである。ただ、それはあなたが、あなたの世界の中で私を生み出しているだけで、私の世界では、私が書いたこの本を読んでいる読者の一人の、あなたを作り出していると言うことである。
あなたは、あなたの人生で必要な知識を得たいという「ヒラメキ」を得た。そのヒラメキは、あなたが選択した「アルゴリズム」である。
そして、その知識について書かれているこの本を、ヒラメキによって見つけ出して買った。そして今このタイミングで、このページを開いて、この文章を読んでいる。これが、あなたの「過去から現在」に至るアルゴリズムである。
そして、私はこの本を出版して、たくさんの人に読んでもらうというアイデアがあり、実際に出版され、たくさんの読者が存在する。というアルゴリズムを選択している。
つまり、あなたはあなたのアルゴリズムを選択し、私は私のアルゴリズムを選択している。これは、私とあなたを含む全ての読者の共通認識であり、全ての読者と私のアルゴリズムの「一致」によって発生した現象である。
ここで、あなたは私と面識がなく、私の姿形も知らないとすると、あなたが作り出した私は、この本であり、この本以外の私はあなたの中に存在しない。
しかし、この後あなたが私の講演会に参加したり、SNSで私と知り合ったり、なんらかの形で直接私とコンタクトをとった際は、その私をあなたが、あなたの世界に創り出したということだ。また、その時には私も私の世界であなたを創り出したということになる。
つまり、人と人の「アルゴリズムの一致」である「共通認識」が、宇宙そのものであるということになる。
簡単にまとめると、我々は常に無限のアルゴリズムの中から「今」を選んでいる。「今」は、あなたが「今この瞬間」に認知できるもの以外は、あなたの世界では存在しない。(または全ての可能性が存在する)そして、選択したアルゴリズムの中で必要な事象(必然的)が一致することで「共通認識」が生まれ、それこそが共通認識を持ったもの同士の全ての現れ「宇宙」そのものであるということだ。
しかし、このアルゴリズムとの関わりを科学的に証明することは出来ないし、世間の常識的には受け入れ難い内容であろう。それに、先述した私とあなたの関係性も、わざわざアルゴリズムを引き出してこなくても、あなたは「ただこの本をとった」私は「この本を出版した」という事実だけで充分である。
なぜ、私が「アルゴリズムとの関わり」について、ここまで掘り下げたかを、これから説明しよう。
その理由は3つある。
一つ目は、この理解をすることによって、全ての事象に「関心」を向ける事ができるという事だ。先述した通り「関心」は人生はもとより、今この瞬間を充実したものにする、最も重要なツールである。それは「幸せ」とも直結しており、あなたの自己重要感を上げる大切な考え方の一つである。
二つ目は「思考の現実化」という言葉に対して、肌感覚で理解できる様になるという事だ。近年認知されてきた「引き寄せの法則」の様な、願望を実現させる事が目的の本を読んでいると、いかに「思い込み」が重要かは理解できるだろう。しかし、今まで散々「世間の一般常識」の範囲内で生きてきた人にとっては、思っている事が現実になるとは到底信じ難いものになっている。そこで、先述の内容を深く理解し、現実の事象を「これも全て自分が作った」という仮定で見て欲しい。そして細かなことに対して、自分の感情や思考が別の形で自分に表現されていることに気付いて欲しい。よく言われる「他人は写し鏡」「他人の振り見て我が振りなおせ」と言った言葉に対しての理解もより深まるだろう。
そして三つ目は「捉え方」の変化である。あなたに纏わる全ての事象は、あなたにとって必然的に起きていると解釈すれば、今までネガティブに捉えていた経験も、その経験がこれからのあなたを作っていくことを理解すると、捉え方を変換する様になる。例を挙げれば、何度も信号に引っかかって、待ち合わせに遅れた時にも、それは必然的と捉え「もし、信号がスムーズに流れていたら、その先で事故を起こしていたかも知れない」といった仮定を立てる事ができる。全ての事象はあなたにとって最も都合良く、最も安全に流れていることに気づくと、捉え方を変えて、あなたにとってより良いアルゴリズムを手にする事ができるだろう。

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