佐藤 犀

1993年岡山生まれ。振り向いた顔が桑田真澄に似ています。大きく割れるカーブが持ち球。

佐藤 犀

1993年岡山生まれ。振り向いた顔が桑田真澄に似ています。大きく割れるカーブが持ち球。

最近の記事

我が子と夏休みの宿題でバトルがしたい。

ぼくの妄想力と変態性をもってして、将来の家庭について考えてみる。「おまえ、そのキャラでこんなファンシーな将来像イメージしてたんかよ」と知り合いや友人からいじり倒されようと今日だけはモーマンタイとする。ちなみぼくのiPhoneのメモには、コストコの品ぞろえくらい妄想案がストックされている。ちょくちょく小出しにして、ある層から気持ち悪がられたい。いつかは快感に変わると信じている。 大前提だが、独身のくせにという批判は今日はなしにしてほしい。ぼくのnoteは毎日が無礼講だ。以後ご

    • きみはデロリアンに乗れるか?

      「ゆたかさ」ってなんだろう。お金をたくさんもっていることとか、時間を自由に使えることとかそういうことじゃない。「天才とは99%の努力と1%の水だ」と、どこぞの笑いの鬼才が言うように、カピカピに干上がった人間にせめて70%までうるおいをあたえるような日常の一部にこそ「ゆたかさ」は紛れ込んでいると思う。そんなふうに、もっと誰でも手に入れられるような、大きなパワーがなくても大丈夫なことで「ゆたかさ」を感じれないものだろうか。そんな前提でかんがえてみたら、毎日の歯みがきみたいに習慣に

      • 12年前の自分に一眼レフを買ってあげたい

        大切な思い出は記憶だけじゃなく、記録にも残すべきだ。今まで経験していたことを、ばっちり覚えている人なんていないはずだ。 むしろ、思い出したくても、思い出せないことは年々増えているんじゃなかろうか。 「どうした海馬そんなもんか?そんなんじゃブルドン目指せないぞ」と自分の中の松岡修造が暑苦しく顔を出す。だけど修造もたまにはいい活躍をしてくれる。 おかげで、ふとした時に、当時の記憶がおぼろげながらもフラッシュバックしてくることがあるからだ。そして内容によっては恥ずかしい気持ち

        • 私のマニフェストは“モノの一人っ子政策”である

          モノに愛着を持って育てていくというカルチャーは奥が深い。より身近にいえば、安物買いの銭失いにならないように質の良いものを買って長く使おうというやつだ。 私がこの考え方になったのは大学生の頃だ。 テスト期間が終わり、長い春休みが始まった日、友人のすすめで、地元岡山が世界に冠たる児島ジーンズストリートに出かけた。その一角にあるジーパン屋の店長からこう教えられた。 「このジーパンは一生履けるモノだ。しかも履き込むことで、色あせやシワができる。これこそが君にしか出せない軌跡(ストー

        我が子と夏休みの宿題でバトルがしたい。

          ”ぼくたちの手は世界一濃い青に染まっている”

          いつもこの人たちと会うときはわくわくしていた。 馴染みの顔を思い浮かべてみる。同じ地元岡山の高校の野球部で偶然出会い、仲良くなった。もう卒業してから10数年がたつけれど相変わらずよく会う。変わってしまったのは、住む場所と、移動手段であるカラフルなママチャリが、自動車になったことくらいだ。 いつもの集合場所に、全国津々浦々から、続々と集まってくる。若干の大所帯、車2台編成で、目指す場所があるからだ。 国道2号線のそのまた先、岡山県は児島にぼくたちの聖地がある。”児島ジーンズス

          ”ぼくたちの手は世界一濃い青に染まっている”