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「考える」を考える


私の中で「好きなのに苦手意識があること」の一つに「ブログ」があるのだが、漠然と苦手意識を持ったままインターネットの海で泳いだり浮いたりしながら、生活すること早十数年経過していた。

時折「よし、ブログを書こう」と改めてキーボードの上に指を滑らすと、ぺらぺらぺらとどんどん言葉が重なっていくのはいいものの、途中で妙な違和感を覚えてしまい、1つの記事を投稿するまでに下書きが5個くらい出来てしまう。一番初めにブログを書いた小学生の頃から変わらない。ちなみにこの記事書き上げるまでに4時間掛かった。


そんな私が懲りもせずにまたブログを書く理由は、最近の息苦しさに疲れてきて、一人でベラベラと吐き出す場所が欲しかったから。

インスタのストーリーやツイッターはどちらかというと「みんな向け」という意識が求められてない割に無駄にあるというか、正直長々とゲロを吐くにはあんまりふさわしくないと判断した。

まあ、よくなんか色々吐いてるように見られてるだろうがあれは発作みたいなものなので自分としてはまた違うものだと認識している。

今日のこれは整理整頓ゲロであり、これからもゲロの整理整頓をしにnoteを使おうと思う。げぇ。本当にすんません


最近のネットを取り巻く環境での息苦しさ


自分がインターネットに触れ始めたのは小学校一年生の2004年。

ツイッターのサービス開始が2006年なので、いわゆる幼少期をデジタル・ネイティブ第一世代として過ごし、デジタル・ネイティブ第二世代と呼ばれる世代が始まった、ちょうど中間の世代。と思う。

決して裕福ではなかったものの、絶対時代遅れにだけはさせたくなかった母親の意思で我が家にPCが導入されたおかげで、物心がついた頃にはずっとインターネットのある生活をしていた。何かわからない事があればすぐに調べるクセがつき、昔から知りたい欲に関して不便する事は何一つなかった。


ただここ数年、自分の感情の起伏や感情の処理や、どんな悩みに関しても即座に検索し、誰か同じことで悩んだ人の簡素にまとめられたブログを読み、自分で考える過程をある程度すっ飛ばして解決することに慣れすぎている自分が居ることに気が付き始めた。

なんなら検索ツールを使わずにSNSで検索することが増え、問題発生→解決のプロセスがあまりにも直接的すぎるなと感じることが増え、

「これは、情報を調べる行為ではない。知る事をただタスクとして消費しているだけだ」

と強く感じ、息苦しく感じる事が多くなってきた。


という事で、自分の生い立ちとインターネットの立ち位置についての整理整頓ゲロをこれから吐くとする。


誰かにとっての正解を叩き出す事で、自分の存在意義を見出していた


私は高校から専門科のある学校に通っていたので、義務教育までしか一般社会における教育というものを受けてないのだけれど、今思い返してみれば「正解かどうかに関わらず自分の考えを述べる場」が割と少なかったなと思う。

友達の大学生とかを見てるとグループディスカッションの授業があったり、結構な頻度で小論文があったりゼミがあったりして、一概に正解はないけど自分の持つwhyについて調べる機会や、考えをまとめて発表する機会がそれなりにありそうだなという風に思う。大学生やった事ないので詳しいことは分からない。

「正解は正解、間違いは間違い」

という事に縛られすぎていたし、当時の記憶として明確に「間違えるのは嫌な事、恥ずかしい事」と思ってた事も覚えている。

そして通信簿に毎回毎回書かれる「りずむさんはリーダーシップのある人間です」という言葉に、いつしか縛られ、リーダー力がある人間であるべきだと自分の事を調整するようになっていき、正しい知識にまみれることで安心感を得ていた。



先生にとっての正解、親にとっての正解、友達にとっての正解、恋人にとっての正解、バンドメンバーにとっての正解、ファンにとっての正解

いつしか誰かにとっての正解を叩き出す事が自分の生きる道になっていった。というかぶっちゃけ今でも私にはそれを求めれられる事が多いと自負している。

まあ本当に都合の良い人間。嫌われる事が極端に怖かったし、誰かに嫌われた自分を嫌っていた。そしてそんな自分で良いと本気で思っていた。

インターネットに依存し、タスクとして詰め込んだ知識に沿って行動し、知識外の事をする人たちを見ては自分のアイデンティティの無さに自信を無くし、アイデンティティを得るために更にインターネットで得た知識をタスクとして頭に叩き込むと言う奇怪なループが起きていた。


初めて経験したインターネットに乗ってない正解の形


ここで今まで誰かの正解を叩き出す事が自分の生き方だった私に、大きな転機をもたらしてくれたのは学生という身分が無くなってから初めて挑んだバンドの解散。実際メンバーチェンジを行いバンドをそのまま続けるという選択肢もある中、ミニアルバムの全国リリースツアーのファイナルワンマンの翌日解散発表をすることになる。

人生のなかで最大級に悩んだし、壁にぶち当たったし、正解の出ないしんどさを痛感した。どの選択肢をとっても自分の思い描く正解から外れる事が確定している事がその時は本当にきつかった。誰も間違っていないし誰も正解じゃない、決断の問題だったから。

今まで正解や知識にあやかるだけのイージーモードで生きてきた自分にとってはすごく新鮮な経験だった。

今となっては新鮮な〜とか言えるけど、正直ちゃんと振り返って清算できたのつい最近。バンド解散して二年半も後。


ネットに載ってた”正解とされる言葉”が、自分の中の経験を表す言葉として入ってきた


その時の決断が正解だったのかどうかなんて見る人によって変わるし、「結果は後からついてくる」という言葉が身にしみてわかるようになったのもつい最近の話だ。

そんな時に、今までずっとネット上で見てきて"正解の知識"として自分の頭にあった言葉たちが、体感として自分の中にちゃんと溶け込っているものが増えていることに気が付いた。


自分が経験できる物事の少なさに対して、ネット上の知識の量が圧倒的すぎる件


今の自分を構成してるのは過去の自分なので、今自分のことを頭でっかちだなと思うけど、長らくこれが賢いということだと本気で思っていた。


インターネットが本当に自分の脳みそならば賢いのは当たり前である。


でも実際は違うし、ネット上の事と自分のネット外の生活が"違うもの"という事が改めて体感でわかってくるようになってきた。ネットに載ってる正解達だけが通用しないことが沢山ある。

インターネットと共に生きるデジタルネイティブの自分は、こんな簡単なことに気付くまでに相当な時間が掛かった。生まれてから23年。

デジタルネイティブ世代の大きな課題だと思うし、デジタルネイティブを育てる大人達はより考えていかなきゃいけない問題だと思う。


「最近の若者は賢い」のではなく「インプットする知識量が莫大に増えてしまい、頭でっかちな人が極端に増えているだけ」だとも思う。

自分が行動を起こさなくてもネット見てるだけでその行動を起こしている人がすぐに見つかるし、その結果もすぐにわかるし、それで良い。でも気が付いたら一日中いろんな情報にまみれて垂れ流すように思考を巡らせるだけで実は自分は特に行動起こしてませんでした。って人多いと思う。


だから自分は改めて

思考を巡らすだけではなく、しっかり考えること、考えをまとめること、アウトプット(行動)すること

を重点的に鍛えていこうと思います。


長い目で見て、少しでも息苦しさの改善になればいいなと思う。


と言う事で、今回はいい感じにすっきりしたのでここまでにします。お疲れ様でした。

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