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球技の歴史を概観

戦国時代の中国(紀元前4世紀)、斉(せい)の国には、すでにボールを地面に落とさないよう足で蹴り続けるスポーツがあったといわれています。
当時は遊びではなく、兵士の鍛錬のためにやらせていたようです。
映画の「レッドクリフ2」でも兵士らがサッカーのようなことをしている場面がありましたね。
それが奈良時代(7世紀)の日本に伝わり、平安時代末期に貴族の遊び“蹴鞠”になりました。
当時はまだゴムのボールはなく、鹿など動物の革で作っていたので転がるだけで跳ねないマリです。

西アジアには、ペルシャ(イラン)発祥のポロという馬上ホッケーがあります。馬に乗ったまま長い棒でボールを打ってゴールに入れるもので、いかにも遊牧民らしい遊びです。もともとはボールではなく羊を打っていたとか(ちょっと残酷・・・)。
ポロはユーラシア全域に広まり、唐の時代の中国でも大流行しました。

ポロというとイギリスを思い出す人もあるでしょう。しかしイギリス人がポロをやるようになったのは、19世紀にイギリスの植民地だったインドから伝わって以降と考えられています。
ちなみに、ボタンダウンのシャツはポロをするときに襟がヒラヒラして邪魔だという理由で生まれたようです。

ここからは球技の1つフットボールに焦点を当ててみましょう。
中世のヨーロッパでは、フットボールは農村で春に行われる年に1度のお祭り(農耕儀礼)でした。男たちが村中の田畑や通りをかけまわってボールを奪い合い、決められた場所にボールを運ぶ、かなり激しいものだったようです。

この中世のフットボールを今もイタリアで見ることが出来ます。
「カルチョ・ストリコ」、直訳すると“歴史的なサッカー”と呼ばれるもので、当時は手を使ってもかまいませんでした。カルチョ・ストリコは18世紀に一度断絶しましたが、1930年に復活し、フィレンツェのサンタ・クローチェ広場で毎年6月ごろに行われています。

18世紀のイギリスでは産業革命によって都市の人口が急増しました。フットボールは狭い都会の道路を舞台に行われましたが、それは破壊行為に等しく民家や商店が被害を受けました。
街中を男たちが暴れまわるフットボールは、社会や政府に不満を持つ労働者を巻きこんで暴動に発展することも多く、死傷者が出ることもありました。そのためイギリスではフットボール禁止令が何度も出されました。

19世紀になるとイギリスの貴族やお金持ちの子弟が通うパブリックスクール(中高一貫の寄宿学校)でフットボールがさかんになります。当時はまだ乱暴な行為が許されており、学校ごとにルールも違っていて他校と試合をする際に不都合がありました。
そこでフットボールの健全化のためにも全国的にルールを統一することになりました。その過程でフットボールは、手を使っていいラグビーと手を使わないサッカーという2つのスポーツに分かれます。

ロンドンの北西、バーミンガムにほど近いところにラグビーという町があります。1823年、ここにあるパブリックスクール、ラグビー校でフットボールの試合中、一人の生徒がボールを手で持ったままゴール目がけて走り出しました。これがラグビー誕生の瞬間とされる有名なエピソードです。
真偽のほどはともかく、現在もラグビーW杯の優勝カップはこの少年の名にちなんで「ウェブ・エリスカップ」と呼ばれています。

イギリスのフットボールはアメリカに伝わり独自の発展をとげてアメリカンフットボールになりました。アメリカでフットボールといえばサッカーではなくアメフトのことを指します。

話が新大陸に及びましたので最後にもうひとつだけ。
天然ゴムの産地である中南米では、古くからゴムボールを使った「トラチトリ」がありました。これはマヤ文明やアステカ文明で祭りのさいに行われた球技です。二つのチームに別れて腰、ひじ、ひざを使ってボールを打ち返します。ボールは太陽の象徴とされてました。
このゲームでは、負けたチームのリーダーが神への生贄にされるという説と、逆に勝ったチームのリーダーが生贄になるという説があります。
勝利した英雄の血こそ、神さまへの捧げものにふさわしいのかもしれません。
  表紙の写真はメキシコのマヤ遺跡(チチェン・イツァ)
  で撮影した球戯場です。


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