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木製零戦は存在したか

終戦記念日の謎解き  〜木製零戦は存在したか〜

先日、富士山の青木ヶ原樹海に行ったとき某所でガイドが言った。 
「この辺りにはかつて白神山地(ブナの原生林が世界遺産になっている)にも負けないブナ林があったが、終戦近くに金属がたりなくなり零戦の胴体にするために大量のブナが伐採された。」

飛行機を木で作る?
一次大戦ならまだしも‥太平洋戦争末期に、いくら金属が足りないからとはいえ木製の戦闘機?しかも零式艦上戦闘機とな?
商売柄、歴史にまつわるこうしたエピソードを聞くと、どうしても裏がとりたくなる。
確認したいことは3つ。

1,太平洋戦争時に木造の零戦(あるいは戦闘機)が存在したか
2,もし存在したならその素材はブナか
3,もしブナならば、それは青木ヶ原から供出されたものか
図書館に行く時間がないので、甚だ不本意ながら手っ取り早くネットだけで調べてみた。
以下、ミリタリー好きの人には当たり前のこともあるだろうがご勘弁を。

まずはそもそも二次大戦(1939~1945年)の時代にまだ木製の戦闘機が活躍していたのか。答えはイエス。
中でも有名なのが、イギリスの「デ・ハビランド社」が製作した「モスキート」という爆撃機。「木の驚異」と称されるほど高性能だったらしい。1940年生産開始で1951年退役、というから驚く。
ところで、この「デ・ハビランド」という名に聞き覚えがないだろうか?
そう。「風と共に去りぬ」のメラニー役の女優オリビア・デ・ハビランドのいとこが創業した会社なのだ。

話を戻そう。探しているのは日本の木製飛行機だ。
すると、零戦ではないが、新人パイロットが飛行訓練をするための訓練機「九三式中間練習機」を見つけた。
複座の複葉機。複座なのは後ろに教官が乗るためだ。墜落・着水時に発見しやすいよう尾翼が赤く塗られていることから通称は「赤とんぼ」。
そしてその作りは、鋼管か木材(!)で骨組みを作った上に羽布(はふ)張り。羽布とは主に亜麻布のことで、木の合板(!)を使うこともある。おお、これぞ木製飛行機!?

だが九三式(皇紀2593年=1933年)なので太平洋戦争(1941~45年)と時期が合わない。
と思ったらなんと!大戦末期には塗装し直し後部席に燃料タンクを装備して、神風特攻隊機(!)として使われたという。

さらに、この「九三式中間練習機」の現存する機体1機が山梨県の「河口湖自動車博物館・飛行舘」(毎年8月のみ開館)に展示されていることを突き止めた。
青木ヶ原は河口湖のほとり。もしや、ガイドはここで仕入れたなんらかの知識を脳内で別の知識と融合したのでは?
“木製機体による神風特攻隊”というところから“神風といえば零戦”という誤解が生じたことは想像にかたくない。
実際にはその機体は以前から存在していたものを転用しただけで、大戦末期に新たに造ったものではなかった。

同じような例はほかにもある。1943年に量産が開始された「白菊」という単葉の機上作業練習機が大戦末期に特攻機に転用されていた。
「白菊」は金属胴体に木製の翼!半分木製機で特攻機で時期的にも合う!ガイドの言っていた話とつながるのでは?

ところが、「白菊」は福岡県春日市にあった九州飛行機製作所で製造されている。家具の町、大川の木製飛行機部品工場で翼を作り、同製作所で組み立てていた。
山梨で切り出した木材を九州まで運ぶ…。ちょっと遠すぎる気はするが、可能性がなくはない。ただ、原料となる木材がブナなのかまでは分からなかった。

ちなみにドラマ『水戸黄門』でおなじみの俳優西村晃氏(故人)はこの白菊特攻隊員だったが、機体不良で基地に引き返したのち終戦となり生きながらえた。
茶道裏千家第15代家元の千玄室氏(98歳)は西村氏と白菊特攻隊の同窓で親友だった。

調べをすすめると、大戦末期に日本で木製飛行機がさかんに作られていた事実が判明した。ジュラルミン(軽くて強いアルミニウム合金)などの材料の欠乏が理由だ。
1945年8月4日の朝日新聞(大阪本社版)の1面に「本土決戦へ入魂の木製機続々生産」という記事が!
工場での生産風景の写真も掲載されているが、軍事機密上、撮影場所や日時、会社の名は伏せてある。
では飛行機は一体どんな木で造られたのか?

この新聞記事を紹介しているネット記事が、飛騨の家具メーカーと北海道・江別の王子製紙が木製飛行機を作っていたと言及している。
調べてみると飛騨には立派なブナの原生林があった。そして飛騨木工(現・飛騨産業)という家具メーカーがブナ材を使って戦時中に木製戦闘機の開発、製造をしていた!ようやくブナ製の飛行機に巡り合った!
残念ながら実用化前に終戦を迎えたため、出来上がった10機の機体は河原で燃やされてしまったそうだ。

北海道の方はというと、日本のブナ北限の地である黒松内町に天然記念物の「歌才(うたさい)ブナ林」があり、そのブナを、江別市の王子工場で製作している航空機のプロペラ材として供出するよう求められたが、拒否して破壊を免れた、という話が出てきた。
飛騨と江別で作っていたのは零戦だったのだろうか?

否。それは「立川キ106」。四式戦闘機「疾風(はやて)」の木製版として陸軍が製造を命じたもの。当然ながら、陸軍機は海軍の艦載機より重量がある。そのため開発は困難を極め、結局実用化はされなかった。

現在、江別市郷土資料館と札幌の北海道博物館で「立川キ106」の木造の部品が展示されている。いかにも北海道らしく、エゾ松と樺を使用しているそうだ。

「立川キ106」は王子のほか、東京の立川飛行機、富山の呉羽飛行機でも製造していた。
山梨から一番近いのは東京の立川。もしかすると、山梨のブナが立川機に使われたかもしれない。

松下幸之助も、大戦末期に木製爆撃機「明星」の専用工場を軍の要請により設立していた。
これは冒頭で紹介した「モスキート」に触発されて九九式艦上爆撃機を木製化する試みだったそうだが、完成後の試験段階で終戦を迎えた。しかも使用木材はブナではなく松とヒノキだった。

以上の結果、「富士樹海のブナ」を使用した「木製」「零戦」の存在は(ネット上では)確認できなかったが、終戦記念日丸一日をついやして、木製戦闘機についての様々な知見を得ることができた。
河口湖町の郷土史などには何か情報があるかもしれないが、この謎解きはここまでとする。長文にお付き合いいただきありがとうございました。


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