賃貸をやめてマンションを買う! のきっかけ

やぎひつじは家を失いかけていた。
「やぎさん。緊急連絡先、決めていただくの今日までなんですけど、他の方どなたか見つかりました?」
晩秋の夕方、仕事の帰り道でかかってきた不動産屋からの電話は、降っている雨よりも冷たい、とひつじは思った。
「いえ……見つかりません」
「そうですか」
「でも、変じゃないですか。身内以外は都内に住んでる人しか駄目って。都内でも23区外の西の方に住んでる人より、大宮とか市川とか川崎に住んでる人の方が東京までだと距離的に近いし、急な時でも早く到着しますよね?」
「そう言われましても……」
「基準おかしいんじゃないですか!?」 
「だって、保証会社がそう言ってるんですよ!」
内見に同行した若い不動産屋の新人男子は、今日は電話の向こうでキレ気味だった。あの時は気が利かないながらも、結構話が弾んだものだったが。
新人の電話のやりとりが不穏なのを誰か察したのか、急に電話の声が変わった。
「あの、すみません、やぎさん」新人不動産屋の上司らしい。「保証会社を変えて、もう一回申し込んでみますんで」
「あ、はい……。」
「じゃ、一旦失礼します。また後日ご連絡しますんで」
会話が終わった。電話を切った。
保証会社を変えても結局、緊急連絡先は身内でないと駄目、と言われてしまったらどうしよう。今住んでいる借り上げマンションの社宅は、退職と同時に退去することになっている。続けて住むにしても、今度は単独で賃貸契約をし直さないといけないとのことだった。当然そちらでも保証人なり緊急連絡先なり求められるだろうから、見送るしかなかったのだ。

やぎひつじは天涯孤独だった。
この騒動の数年前、単身上京したのである。アラフォーで独身、実家はないも同然で、東京には友人どころか知り合いもいない。転職が機の引っ越しだったから、辞める会社の人に次に住む家の保証人など頼めるはずもない。
これで社宅の退去日を迎えてしまったらどうなるんだろう。家財道具だけをトランクルームに入れて自分はビジホ、とかだろうか。そんな生活、金銭的に何日可能だろうか。その間に、今回のように緊急連絡先の基準が厳しくない不動産屋が見つかるだろうか……。
上京する前に住んだことのあったURでも賃貸を探してみたが、東京はURですら恐ろしく家賃が高かった。民間の賃貸と変わらない、そのくせ郊外にある。千葉や埼玉や神奈川で探せばいいのかもしれないが、都内ですらろくに土地勘がないのに、他県となるとさっぱりだ。仕事をしながら探しに行く余裕はない。
本当に、住む家がなくなるかもしれない。
この思いを経験したことのある人は、そう多くはないはずだ。

数日後、不動産屋が別の保証会社に当たってくれたおかげでなんとか賃貸の契約をすることができ、結果的には社宅の退去日までに無事引っ越すことはできた。だが、あの「住むところがなくなるかもしれない」不安は生涯忘れないだろう。それどころか、今後も起こることは否定できない。例えばまた転職したら? 定年退職して収入が減り、家賃の安いところに住まないといけなくなったら?
これって、持ち家だったら解決することなんじゃないだろうか。でも、天涯孤独のひつじに、家は買えるのか?

ひつじは賢者との年イチ定期面談で起こったことを言ってみた。
「……ということがあって、困って。でも、マンションを買うにしてもローン組まなきゃならないなら保証人とか要るの、一緒ですよね?」
ところが、賢者は厳かに言い放った。
「うん? そういうのは要らないんじゃない? 家のローンなんて、あなたがいくら稼げるかってだけのことだし」
「本当ですか!?」
にわかには信じがたい。だが、金で契約している賢者ことFP(ファイナンシャルプランナー)は重ねていった。
「私の時も要らなかったし」
ひつじはしばし絶句した。恐る恐る賢者に問う。
「じゃ、じゃあ、払える金額のローンを組むなら天涯孤独でも家が買えるってこと?」
「うん」
「だったら、私、賃貸やめてマンション買います!」





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