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違う軌道で生きている者たちへ

 隣駅でおりていった、名前もしらないあのコ ーー northfaceの白ダウン、マンダリンオレンジのフレアスカート、DoctorMartin的なつま先の丸い革靴……キューティクル満点、ヘーゼル色のショートボブが、目にとまった。カバーで嵩が二回りは膨らんだスマホをしきりに操作していて、ついぞ顔をあげることはなく。
 きっと、たいしたコでもないでしょう。新年一発目のパパ活へいくとこだったかしら。帰りは大きな福袋といっしょですかねえ。もっともその場合、メトロってことはないでしょうけれど。いやはや失礼、てきとうなことを言いました。一度目についてしまった以上、宙ぶらりんのままっていうのも、こちらがいたたまれなくなるの。

 たいしたことはないのだ。だから次の駅でホームにおりると、乗り換えの列に合流する。そして今日の予定をたどっているうち、もうそのコはどこかへ消えてしまっていて、いっとき現実をうしなっていたかのような、なにとはなしの空白感だけが残る。うん。今日の予定だって、明日の予定だって、思えばすべて虚無みたいなもんだから、すると空白はまた次の空白でもって贖われる、っていうことになりますね。どうりでお腹がすくワケか(?)。

 
 昭和の大変態である川端康成は、『みづうみ』で銀平に語らせる。銀平は自分のサルのように醜い足を湯女にあずけて、爪をきってもらっているとき、

妙なことを言うようだが、ほんとうだよ。君はおぼえがないかね。ゆきずりの人にゆきずりに別れてしまって、ああ惜しいという……。僕にはよくある。なんて好もしい人だろう、なんてきれいな女だろう、こんなに心ひかれる人はこの世に二人といないだろう、そういう人に道ですれちがったり、劇場で近くの席に坐り合わせたり、音楽会の会場を出る階段をならんでおりたり、そのまま別れるともう一生に二度と見かけることも出来ないんだ。かと言って、知らない人を呼びとめることも話かけることも出来ない。人生ってこんなものか。そういう時、僕は死ぬほどかなしくなって、ぼうっと気が遠くなってしまうんだ。この世の果てまで後をつけてゆきたいが、そうも出来ない。この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね。

『みづうみ』p.41

ながすぎる独りごとを呟くのだ。


 なぜか心にこびりついてしまったフレーズってありませんか? 「死ぬほどかなしくなって」というココ、まさにココ。しばらくのあいだ、こればかり反芻して、大手町やお堀前を歩きつづけていた。この一句に、生かされ殺され、すれ違うすべての風景に、行きずりのかなしみを誘われ、フラフラって、どこかへよろめいていって。ついには反芻のしすぎで、「死にたくなるぐらいかなしくて」なんて、形まで変わってしまっていて。

 そのうちに、〈かなしみ〉という川端さんがみいだした詩情がはっきりと光彩をはなちはじめて、この並外れた作家の作品を「散文詩」と評した小林秀雄にもなるほどな、と共感した。作家をみる基準は、強度ある詩情をもつか否か、になった。そして優れた作家は皆一様に、固有で普遍的な詩情をもつ、というのは事実である。


 隣駅でおりたあのコは、あのコじゃなくてもよかった。かんたんに一般化されてしまう。かわいければいい。きれいならいい。もっといえば、タイプならいいんです。そんなコをみかけたとき、死にたくなるほどかなしくて、なにか後ろめたくて申し訳なくなって、みてみぬふりをしていたけど、やっぱり『みづうみ』が浮かんできて、僕を刺した。

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