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貧しさの本質から考えてみた“ゆたかさ”



今日の映画は

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

このnoteは私が触れた本や映画からの学びをアウトプットするための備忘録のようなものです。




Talk 1 / 貧しさの本質

まずはこの映画のあらすじを紹介する。主人公の女の子は母親と2人でディズニーランドのそばのモーテルで暮らしている。母親は、定職につかず偽物の香水を売るなど法に触れることをしながら生活費を稼いでいる。貧しい生活ではあるが、主人公は親友と楽しい日々を送る。ちょうど夏休みが終わりに近づく頃、児童相談所のスタッフが親子を引き裂こうとやってきて、主人公は魔法のような楽しい生活の終わりを感じるという作品。

もし何か劇的なハッピーエンドを望むのであれば、観ることをおすすめしない。これはより「現在」に近いエンドを迎える。正直、私は「こんな終わり方するんだ!」と驚いた。が、タイトル通りの終わり方だと納得した。

さて、本題に入る。貧しさとは何か、この映画は教えてくれた。思い浮かぶ貧しさを挙げる。

・経済的な貧しさ
・心理的な貧しさ
・環境的な貧しさ

「貧しい」と聞いて真っ先に思い浮かぶのはやはり経済的な貧しさではないかと思う。そして、経済的な貧しさからストレスが溜まり心の余裕が無くなり心理的な貧しさへ、そして性格の変容から人に優しく出来なくなったり時間的余裕が無くなったりと環境的な貧しさにつながると私は思う。

お金があるから幸せだとは思わないが、貧困は少なくとも他の貧しさへと影響していく。この映画では、毎週の宿代を払うために違法な販売や窃盗をする母親であるが、子どもは幸せに暮らしている。

貧しさ≠豊かさ

何を基準に子どもの幸せ・豊かさが決まるのだろうか。それは、親からの愛情が重要なポイントとなっていた。生活が経済的に苦しくても子どもと同じ目線で遊び、たわいのない会話を交わし愛が溢れる生活だ。確かに母親としてどうなの?という行動もあるが、それでも子どもを邪険に扱うことも暴力を振うこともない。子どもが日々笑顔で過ごせるのは、紛れもなく母親の愛情があったからだ。

貧しさの本質は心が決める

心が温かいと人は他人に優しくなれる。心が貧しいと世界のバランスが崩れ、自分の本心とは裏腹な行動をしてしまう。心が豊かであれば貧しくはないのだ。


Talk 2 / 人格は幼少期に育まれる

では、子どもにとって本当に必要な環境とはなんだろう。この映画では互いに必要とし合っているからこそ楽しい生活が送れていた。主人公はなぜこの母親を必要としていたのか、考えてみる。

言葉がガサツでカッとなりやすい性格の母親であったが、子どもを“怒鳴る・暴力をふるう”なんてことは一度もなかった。子どもに理不尽なことを言わなかったのが、私の中で驚いたポイントだ。ついやりがちなのが、本当の理由を隠して禁止することだ。あるいは嘘をついて禁止する。例えば、子ども同士が仲良く遊んでいるとしよう。周りにはバレていないがその子どもたちは空き家をボヤ騒ぎにしてしまう。相手の親はその事を知り、その友達と遊んでほしくなくて誘われても何かと理由をつけて自分の子どもを遠ざける。その相手の人間性を決めつけて口を出す。これは映画の中にあった話だ。自分の子どもも悪いのにあの子といるから悪い子になると思い込み、主人公から引き離そうとしていた。これは、子どもと対等な関係でない。親という大人の立場を使って指示している。果たして無理矢理友情を引き裂かれた子どもは幸せなのだろうか。

対等な関係がのびのびと成長できる環境

もちろん悪さばかりするその2人の関係が良いとは言わない。自分の子どもを守りたい親心でもあるからだ。ただ対等ではなかったように感じる。悪いことをしたと子ども自身も分かっていたからこそ、どうすべきだったか叱り、諭すことが必要だった。次に失敗しないために、それが必要だったと思う。そして、関係を禁止するのではなく子ども自身にどうするのか委ねるのも必要なのではないだろうか。

親が下手に守ろうとすればするほど、子どもが成長するにつれて対人関係で悩む気がする。そう、自分で解決してこなかったから。育児って正解がないからこそ、自分なりの子どもへの向き合い方を見つける必要がある。私は、この映画を観て“対等な関係で在りたい”そう思った。ルールを親が決めるのではなく、子どもと対話できる環境を創りたい。

幼少期に人格が形成される

だからこそ、幼少期の環境が大切だ。自分で考えるということが難しくもあり、大事である。共に学んでいく姿勢が親子を成長させてくれるのではないだろうか。


Talk 3 / 魔法が解けるとき

楽しかった夏休みが終わるようにこの映画の親子は引き裂かれた。親のネグレクトの疑いで主人公が保護されることになったのだ。それはまるで魔法が解けるときのようだった。

何をもってネグレクトとするのか。私が児童相談所のスタッフとしてこの親子のもとを訪れたら、きっと映画と同じ展開だったであろう。側から見たらろくに勉強もさせず、男を連れ込んで怪しいことをする母親は、子どもにとって良い環境を作れていないと判断されるだろう。

これは前回のnoteで言った『枠』なのだ。そういうフィルターで物事を見れば、そう見えてしまう。子どもが母親と離れたくないと必死の抗議をしてる姿から母親の愛を受けて育っているのは紛れもない事実であるのに、『枠』はそれをねじ曲げて見てしまう。

児童相談所の仕事は生活状況をきちんと見極めないといけないから難しい仕事だと思った。ネグレクトとは何か、しっかりと理解していないといけない。もちろん、通報する可能性のある近隣住民もだ。

すべての中心は愛

心を温めるのも、何か行動を起こすのも中心には愛がある。木漏れ日のように周りの人の心をふわっと温めれる人になりたい。

出来れば、魔法が解けないようにしたい。たとえ魔法が解けてしまっても落ち込んだその先をそっと木漏れ日が照らすような、寄り添える人になりたい。そんなことを思う夜だ。

今日のnoteの終わりかたはまとまらないけど、日々起こる出来事から少しでも学びを感じとれるよう心のアンテナを立て続けよう。おやすみなさい。




Ricky.










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