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公共交通機関の“公共性”について考えてみた。

電車でエルボーされた話

以前、リュックを背負って満員電車に乗った時の話。本来であれば荷物は頭上の棚に収納して乗車すれば他の利用者の迷惑にならないものだが、その日は荷物が重たいのと一駅しか乗らないで、数分我慢すればすぐ降りるし、返って満員電車の中でゴソゴソ荷物を動かすのは、周りに肘や荷物を当ててしまうと思って、棚に乗せなかった。
そもそも、重くて乗せてる間に次の駅に着いてしまいそうで、乗せられなかったという方が正しい。
乗り込んでくる客に押されて、どんどん車両中央に押し込まれていくので、リュックが周りの人に当たって、余計なスペースを取ってしまって申し訳ない気持ちになっているところに、突然リュックに向かって舌打ちしながらエルボーしてくる男性がいたのだ。
「え!?エルボー!?」と驚き。確かに鮨詰め状態の車内で余計に場所を取っているのは申し訳ないが、暴力を振るうほどではなかったはずだ。

怪我とか痛い思いをしたわけではなかったが、リュックから出てきた原型をとどめないお握りを食べながら「他人より場所を取っていることで、その人を不快にさせたからエルボーされたのかなぁ」と不貞腐れながら考えていた。

他人より場所を取っていて他人を不快にしたのなら、極端な話、荷物を含めても私より体型が大きい人だったら、もっと他人を不快にするし、もっと攻撃の対象になってもおかしくない。なんで私ばっかり攻撃されなきゃいけないのか納得がいかない。

そんなこと言ったら、車椅子の人も、ベビーカーの人も、キャリーケースの人も、さらには、太った人も、みんな場所を取るから乗車してくるだけで他人を不快にしてしまう存在になってしまうではないか。

いや待てよ。それはおかしい。電車はみんなが乗れるからこそ「“公共”交通機関」のなのだ。

それで“公共”ってなんだろう?っていうのが私の最近のもっぱらの関心ごとなので、noteで頭の中を整理してみることにする。

そもそも“公共”ってなに?

“公共”交通機関」「“公共”事業」「“公共”料金」「“公共”の福祉」「“公共”の場」というように日常生活でも“公共”という言葉は、なんとなく聞くが、いざ説明してくれと言われても、うまく説明できる気がしない。

そもそも“公共”ってどんな意味なんだろう?気になったので辞書で調べてみることにした。

日本語辞典の『大辞林』(松村 1995)では「広く社会一般に利害・影響を持つ性質。特定の集団に限られることなく,社会全体に開かれていること。」とされている。

ふむふむ。つまり、“公共性”という言葉には「広く社会一般に利害・影響を持つ性質」「特定の集団に限られることなく、社会全体に開かれていること。」の2つの意味があることがわかる。

では、公共交通機関において、「広く社会一般に利害・影響を持つ性質」とはユーザー視点で言うと具体的にどんなことなのか?

「特定の集団に限られることなく、社会全体に開かれていること。」とは具体的にどう状態を指すのか?

それについて考えてみようと思う。

電車で“利害・影響を持つ性質”=“快適さ”

電車の最大の恩恵というのは、不特定多数の人が“移動できること” さらに欲を言えば、なるべく“快適に”移動できることが、個人の「利」にあたると考えられる。

“移動できること”だけを考えれば、公共交通機関の電車やバスは、多くの個人の移動に役立つ便利な乗り物だが、ユーザー視点でいう「害」というのは、もっぱら利用時の“不快さ・不便さ”といったストレスだろう。

つまり、公共交通機関のユーザー間における“利害”というのは、具体的に言えば利用時の快適さ”という部分だと解釈できる。

私が電車でエルボーされたのは「自分よりも場所を取る誰かが不快(害)だからエルボーをした」と考えられる。

そんなこと言ったら、リュックを背負っていた私も、車椅子の人も、ベビーカーの人も、太った人も、みんな電車に乗れなくなってしまう。

“公共性”という言葉のもう一つの意味にある「特定の集団に限られることなく、社会全体に開かれていること。」を思い出して欲しい。

公共性の理想「社会全体に開かれている状態」

「特定の集団に限られることなく、社会全体に開かれていること。」というのは公共性の目指すべき状態。それこそが、公共的であり、公共交通機関のあるべき姿というのは何となく想像がつく。

例えば、電車内で占める体積が平均的な集団がマジョリティ(通勤する会社員など)で、その他の平均よりも体積を必要とするマイノリティの集団(車椅子やベビーカーなど)があるとする。

特定のマジョリティ集団に属する通勤中の人が、マイノリティの集団に属するベビーカーの人に対して「ベビーカーを畳むべきだ!それをしないなら電車に乗るな!」「満員電車に乗る必要ないだろ!タクシーを使え!」と主張するのは、ベビーカーで乗車する集団は、自分たちの“快適さ”を脅かすのある属性を持つものとして扱っている。

これらの主張は、“特定のマジョリティ集団の快適さのみ”を優先しており、“マイノリティ集団に属する人を社会の一員から排除している”ため、社会全体に開かれているとは言えない。

つまり、「特定の集団に限られることなく、社会全体に開かれていること。」とは程遠い主張である。全くもって公共的ではない。

公共の福祉とは「社会全体の利益」だが、特定のマジョリティ集団の快適さを脅かすことが公共の福祉に反しているとするのは、自分たちが属する集団のみを社会全体として扱っている。これらの主張は独善的で公平感に欠けている。

ベビーカー乗車、車椅子乗車、など他人よりも場所を取る人が、そうではない人を圧迫することを理由として、「ベビーカーを畳め」「タクシーに乗れ」と自分の快適さという利益を優先する思考は、“他人よりも場所を取る人は、そもそも不快なので「害」である”というのと同じである。電車にいるだけで「害」というのは、どう考えても差別的である。

ベビーカーを畳んで占める体積を縮めさせることが、「他人よりも場所を取る人が取るべきマナー」という考え方は究極的に言えば、「他人よりも場所を取る太った人はダイエットしてから電車に乗るのがマナーだ。」と本質的には同じだ。

「公共の福祉」を「社会全体の利益」と言い換えた場合、“他人よりも場所を取ってしまう人も社会全体に含まれている”ことを忘れてはいけない。

図にして整理してみる

“公共”を簡単に言ってしまえば「みんなが乗ることができるもの」

その「みんな」を形成するのが、男の人だったり、女の人だったり、日本の人だったり、外国の人だったり、年配の人だったり、若い人だったり、体が大きい人だったり、体が小さい人だったり、通勤する人だったり、通勤しない人だったりする。

「“みんな”が乗ることができる」ところの言う“みんな”に、他人より場所を取ってしまう人も含まれてることを忘れてはいないか。

マジョリティ(男の人、日本の人、健康な人、通勤する人など)の集団に属する人の快適さという利益の部分だけが優先されていないか。

そうすると、「全ての○○の人(みんな)」に開かれていることが“公共”なはずなのに、その“全ての人”から一部のマイノリティが仲間はずれされた状態で、残ったマジョリティが自分らのことを“全ての人”だと勘違いして、偏った公共性を掲げてしまっていることが、公共交通機関における問題だ。

女性専用車両から見る公共性

公共交通機関では、“公共”が指す「広く社会一般に利害・影響を持つ性質」の調整「特定の集団に限られることなく、社会全体に開かれていること」を目指さなければならない。

だが、痴漢犯罪によって女性という社会における集団が、安心して利用することができない状態は、社会全体に開かれていないため、公共的とは言えない。

痴漢犯罪によって公共交通機関の“公共性”が失われることが問題で、その解決のためには痴漢犯罪を撲滅することも公共性の確保をする手段だが、それが出来ていれば女性専用車両は作る必要がなかっただろう。しかし、公共性が失われる原因の痴漢犯罪は容易に解決できる問題ではなったため、女性も含めた公共性を確保するために、女性専用車両が設置された。

要するに、女性専用車両は、痴漢によって失われた公共性を確保するために設置されたのであり、その取り組みは公共性を取り戻すためだと言える。

「子育て応援車両」は熟慮された現実的な取り組み

2月25日に市民団体「子どもの安全な移動を考えるパートナーズ」が小池百合子東京都知事に、電車や地下鉄における「子育て応援車両設置」を求める要望書とアンケート結果を提出したというニュースがあった。

アンケートでは、「子どもが電車や地下鉄を利用している時、危険と感じることがあるか」との質問に、「ある」「どちらかといえばある」は計91・6%に上った。

「社会全体に開かれている」という公共性の観点から言えば、このアンケート結果によって、現在の公共交通機関は、子どもや子連れの利用者にとって開かれておらず、尚且つ「危険を感じる」状態であることは、公共的ではないということを意味する。

「危険を感じる」状態であるというのは、現在の電車・地下鉄内において、公共の場としての助け合いや譲り合いが成立していない現実を忘れてはいけない。

背景には、満員電車や日本の働き方、保育園不足など根深い問題があるが、それらの問題が解決されるのを待ってから、子どもや子連れの利用者も含めた“公共性”や“子どもの安全を考える”という姿勢を、思慮深いとは言えないだろう。

女性専用車両や子育て応援車両は社会の分断を招くとする声がある一方で、これらの声は、“私たちがいかに公共の場で「助け合い」や「譲り合い」などの相互扶助ができてこなかったか”を浮き彫りにするものとして受け止める必要がある。

働き方改革や保育園不足や満員電車など、本質的な問題の解決には時間がかかるため、社会全体として取り組む必要がある。

現状では子どもの移動が危険である事実や、子連れの利用者に開かれていない公共交通機関のあり方や利用の仕方に、一石を投じる今回の子育て応援車両の活動は、単に世間体を気にした「子育てキャンペーン」ではなく、私たちに“公共のあり方”について改めて考えるいい機会である。

“公共性”について私が伝えたい思い

公共交通機関というのは「みんな」が乗ることができるものであり、「みんな」は色々な「〇〇の人」によって出来ている。

「○○の人」の「○○」はいつでも置き換え可能であり、今は「若い人」の私も「通勤する人」として電車に乗るし、将来は子育てをして「子ども連れの人」として電車に乗るかもしれないし、歳をとって「年配の人」として乗るかもしれないし、怪我をして「車椅子の人」として乗るかもしれない。

自分でさえも「○○」の部分が変化するので、今は自分とは違う「〇〇の人」も電車に乗るかもしれない。だけど、自分とは違う「〇〇の人」を、自分の思う「みんな」に含めないで、仲間はずれにすることは、本当の“公共”ではない。

だから、子連れの人の立場になってこんなキャッチコピーを考えました。

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