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家族という小さなチームこそ、対話が必要だ

2021年が始まりました。今年のお正月は、普段よりも家にいることが多かったので、紅白も駅伝も家族と一緒に観て、ケラケラ笑って新たな年を迎えることができました。我が家でテレビを観るとき、決まって母が「このアナウンサーのネクタイはどこのブランドか?」とか「この人の洋服の柄が珍しいけど、どこに買いに行ったらこんなのあるのか?」とか、知らんわ!と思うような独特な質問を投げかけてきます。

同じテレビを観ているのに、注目している視点は違って、面白いなぁと思います。(余裕のある時だけ、、)

こんな風に家族でも感性や価値観は違うはずなのに、家族だからと分かった気になって、きっとこう思っているんだろうなとか、今こう感じているはずだと推測して、暗黙の了解で物事を進めることも少なくないのではないかと思います。

日本人の美徳である「察する」という文化はとても素敵で、私も人の行動でできるだけ察して、先回りして行動したいと思っています。
しかし、家族との接し方を振り返ってみると、時にこの「察する」文化によって、私たちはことを難しくしているのではないかと思ったのです。

そもそも「察する」ことで起こる快適な状態は、日常の多くの時間をともに過ごし、目の前で繰り広げられる小さな選択の数々をともにしている間柄という前提条件の中で、成り立つのではないかと思います。

様々な家族の形があるので一概には言えないですが、スマートフォンやネット環境が整い、これほどまでに個人の時間が豊かになっている今、小さな選択をともにする時間は、家族であったとしてもそんなに多くないのではないかと私は思います。
更に言えば、これほどまでに日々の状況が変わる時代に、1人を取り巻く判断基準さえも風のようなスピードで変わります。

つまり「家族だから分かっていて当然」という常識は、通用しないと思うのです。

その事実に築いた2020年の暮れに、これは今、家族という最小単位のチームの中で対話を大切にできなければ、これから先私は、一生人のことを「分かったつもり」になって、その歯車が噛み合わないままモヤモヤを募らせながら人間関係を構築していくことになると思いました。

と同時に、もしも私のように家族や会社、友人関係という比較的小さなチームや人間関係の中で、モヤモヤを抱えていらっしゃる人がいるとしたら、その方々の希望になるような小ネタの数々を花束にするようにかき集めて、必要な人へ届ける努力をしていきたいと思いました。

これまで仕事や趣味の活動などで、様々なコミュニティに属してきた中で私が経験したことや、2年前に青山学院大学でワークショップデザインを学んだ時の知見、これから学ぶ物事を編み込みながら、自分と必要な人に届ける気持ちで綴りたいと思います。

このnoteでは、小さなチームでの対話やチームビルディングの話を毎週月曜日の17時にアップしてみようと思います。もちろん、家族と会社でのチームとどちらもに共通することもあれば、単一で効果のあることもあるかもしれませんが、根幹に潜む課題は一緒なのではないかと思っているので、参考にしてもらえたら幸いです。

初日の今日は、このあたりで。引き続きよろしくお願いします。

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