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七夕の願い事から見る、人それぞれの想い



今日は七夕である。織姫と彦星のうんちゃらな日だ。
今夜は七夕らしく、夏っぽさがある素麺をいただこうと思いつつ、七夕の思い出を呼び起こす。

七夕といえば、短冊の願い事。

私が子供の頃、短冊の願い事に「ピアノが上手くなりますように」などをよく書いたのは七夕の良い思い出。



最近だと、ショッピングモールや駅などで色とりどりの短冊とペンが置いてあり、気軽に願い事を書けるようになっている。そんなとき、他人の願い事を見てしまうのは私だけであろうか。


私が見る七夕の願い事でよくあるのは織姫と彦星関連からきた「両思いになりますように」から、叶うのにとても難しそうな「お金持ちになりたい」「(資格や試験が)受かりますように」「ダイエットが成功しますように」とか。大きな願い事からあと少しで自力で叶いそうな願い事まで色々だ。
目をよく動かしてまた短冊を見ると、たまに「行きたいライブチケットの二次先行が当たりますように!」と、運要素が強いものだが、叶いそうで手が届かない想いを七夕にぶつけるカタチでペンを握りしめ、自分の想いを短冊に書く願い事も見かける。


他人の願い事をたくさん見ると、自分も欲望のままに願い事を書いていいのかもしれないと思って書く意欲をそそられたりもする。

けど、自分の欲望のままの短冊の願い事もあるが、違うのもあることに気づく。「家族が皆、健康でありますように」「平和な世の中でありますように」「まわりの人が幸せでありますように」など、他人のために願い事を書く人もいるのである。

それは主に自分ではなく周りの人たちの健康面や平和を願うのもの。PEACEという言葉が好きで、心が清らかで落ち着いた人が短冊にその想いを書いている姿が短冊からスルスルと流れるように見えてくる。

しかし、こう考えることもできる。他人に見られても大丈夫な願い事であり、尚且つ理想的な良い心を見せつける願い事として、本人が書いているだけかもしれない。心が清らかとは別の想いがあるからこそ、他人に見せつけたい願い事。ある意味、捻くれた人たちが七夕の願い事ぐらい良い自分を演じたいからと書いた願い事が、本当の意味のままで心が清らかで書いた人との願い事と同じような姿をして。まるでめんつゆの中に入れたわさびみたく、時たまピリッとくるかのように混じっているのか…なんて。

たまたま一緒にいた友達と書くことになってしまい、見られてもいい願い事が浮かばなく、やけくそになりながら書いた人もいるかもしれない。

一人で少し寂しい想いをしながら歩いていたら、短冊を目にして「たまにはこういうものいいか。」と思って書いた人もいるかもしれない。
  
「短冊に書けば、願い事がかなうかも!」と自分の欲望のままに願い事を書いたら、隣で書いていた人たちに願い事をじっと見られて恥ずかしい想いをした人もいるかもしれない。


そんなことをずっと想像していたら、短冊の願い事って人それぞれの複雑な想いが詰まったものなんだなと思った。

人それぞれ置かれている環境や想いなどは違う。だからこそ、願い事も人それぞれの複雑な想いがあるのだ。素麺に入れる薬味などが人それぞれの好みがあるのと同じだ。

人それぞれなんだなと改めて感じることが出来るのが、七夕の短冊なのかもしれないと素麺を食べながら、ふと思った七夕の夜だった。



七夕にある短冊の願い事、あなたはどういうを今まで書いてきましたか?

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