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『海外に挑戦』は幻想

1年前、「海外に挑戦するのをやめた理由」と題し、こちらのブログを書いた。偉そうなことが言えるほど実績がある訳でもないが、「音楽でイギリスに挑戦する」という目標を掲げて渡英し、この3年間で痛感したことを、ありのまま伝えたかった。

語弊のないようにまず始めに言っておくと、「挑戦」をやめたわけではなく、「海外」での活動をやめたわけでもない。「海外に挑戦する」のをやめたのだ。

日本を離れていつも思うのは、いかに日本が素晴らしい国かということ。サービスや食にしても、世界最高水準の生活ができる国。日本人ほど優秀な仕事人は世界中を探してもなかなか見つからないだろう。つまり、何も「海外」に挑戦する必要はないのだ。

ではなぜ鎖国中でもないのにやたらと海外と日本が比べられ、どこかで劣等感につながる傾向にあるのだろうか。

その原因はただ一つ、自信

何を言われようが自分を信じ、自己主張し、物怖じせず人前でそれを表現すること。イギリスでは正解は一つではなく、自分の意見や個性を主張するという態度が「正解」であるという国民性がある。的外れなのに自信満々に意見を主張する彼らの姿を見ていると、呆れるのを通り越して感心する。イギリス人の子供は大人顔負けの自己主張をして、ちゃんと会話ができる。ソーシャルな場でも、黙っていると「大丈夫?」と言われるので、とりあえず何でも頭に浮かんだことを言うようにしている。

日本の歴史、教育、文化、色々な要素が、自由奔放な自己主張や自信を押し潰している可能性もある。「空気を読む」という発想はまさにその象徴。逆にその優秀な協調性のおかげで、日本クオリティーの素晴らしいモノとサービスがあるということも事実なのだが。

つまり、日本人が劣等感と感じるものは肝心な「中身」ではなく、プレゼン力。欧米では派手にパッケージするのは上手くても、蓋を開けてみればそのクオリティーは日本人の方が優秀な場合も多い。逆に日本人は質素なパッケージでも、中身で判断してもらえるとどこかで思っている。でも日本人同士ならまだしも、海外では通用しない。見た目が全て。その見た目こそが、揺るぎない自信の現れなのだ。

今までは、現地の誰かに認めてもらわないといけないんじゃないかと思っていた。でも、実はその考えに、逆に自信を吸い取られていたのだ。

海外にいようと日本にいようと、挑戦する相手はいつでも「自分」。日本を出ることで、新たな価値観に触れることができる。でも「海外」というものを越えるべきハードルだと思っていたら、肝心な自信を見失ってしまう可能性もある。
自分の楽曲の音楽性も、移住当初はイギリスの流行を追ってエレクトロな方向性など試行錯誤してみたが、今では等身大の歌を作れるようになった。ありのままが一番説得力があり、誰にも真似できない個性だとわかったからだ。虚勢を張らなくてもいい。自信とは、肩の力を抜いてありのままの自分を表現すること。

周りや世界と自分を比べずに、ありのままの姿をどんどん外の世界に見せて行ってほしい。挑戦する相手はいつも、今より少し成長した「自分」。

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