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あなたの人生に「チェアリング」という選択肢を

 「アウトドアをしてみたいけど、用具を一式揃えるのは大変そう」、「忙しない日々を抜け出して、ゆっくりとした時間を過ごしたい。でも遠出する時間はない」と都市部で働く人ならば、一度は考えたことがあるのではないか。そんなあなたにこそオススメしたい「チェアリング」は、手軽かつ安価に楽しめる、アウトドア・アクティビティだ。チェアリングをきっかけに見えた、人生をちょっと豊かにする方法を紹介する。

スズキナオさんに聞く、
チェアリング誕生の由来


 はじめてチェアリングをしたとき、衝撃を受けた。イスに座って食べるものは何でも美味しく、風に揺れる葉っぱは美しく、近くに座る小汚いおっちゃんでさえ、私のチェアリングを最高のものにするためのキャストとして、そこに座っているような気になった。そして、ふといつもの街を眺めたら、そこはいつもの街ではなかった。

 私が「最高!」と高らかに叫んだのは「チェアリング」というアウトドア・アクティビティだ。チェアリングとは、アウトドア用のイスを持って屋外に出て、自分の好きな場所に広げて自然に身を任せること。チェアラー(私が名付けたチェアリングをする人々のこと)は、好きなお酒を飲んだり街を眺めたり、思い思いの時間を過ごす。たったそれだけのことが、どうしてこうも幸せな気分にさせてくれるのだろうか。発案者のスズキナオさんに、私を夢中にさせるチェアリングについて話を窺った。

<今回は大阪城公園でチェアリングをしながら取材をした>

 発案者は、酒を愛するあまり結成された酒飲みユニット「酒の穴」のスズキナオさんと酒場ライターパリッコさん。それぞれの音楽活動をきっかけに出会った2名は、お酒の飲み方が似ていることから意気投合し、2015年ごろからウロウロと散歩をしながらお酒を飲む活動を始めた。「チェアリング」が生まれたのは、パリッコさんが制作するムック「酒場人」内の企画としてだった。

 「アサダワタルさんの『表現のたね』というエッセイ集を読んでいたら、イスを近所の家具屋さんで買った帰り道に、踏切で電車を待つ間にイスを置いて座ってみたら、見慣れた風景がガラッと変わったというようなことが書いてあって。腰が落ち着いて視点が変わることで、一瞬で居場所ができることがおもしろく思えたんです。これって飲みの形式の中でやったらおもしろいかなと思ったんです」と話すのはスズキナオさん。同時期に、パリッコさんは「ひとり花見」を行うためにアウトドア用のイスを所有しており、そのことで話が弾み雑誌の企画としてチェアリングが決行されることとなった。

 そんな2名のはじめてのチェアリングは、お台場だったそう。「お台場って観光客が多く、いつも人が賑わっているような、生活の延長で行く場所ではないと思っていたんです。でも実は人口の砂浜とか人気の少ないところもあって。座ってみればフジテレビの建物や人口砂浜の波打ち際も良く見えてきて、これは楽しい!と味を占めました」。雑誌では「チェアリング」というアクティビティが既に存在していたかのように紹介し、掲載とともに世間に認知度を高めた。

<2019年4月28日に発行されたチェアリング入門書『イスさえあればどこでも酒場』スズキナオ+パリッコ著>

 ちなみに「チェアリング」のネーミングは、何気ない会話の中でつぶやいた一言がきっかけで決まったそう。「『ゆるキャラ』のように既にあるものを総括するポップな言葉をネーミングすると、それが概念になっていくことに面白さを感じていましたが、チェアリングは流行らせようと思ってつけた訳ではないですね」とスズキナオさん。では、なぜ今、チェアリングにハマる人が続出しているのか。

高級なレストランでディナーより
安居酒屋でハイボールが飲みたい


 「いつの間にか言葉が一人歩きして、全く知らない誰かにまで広まっていき驚いた」と話すスズキナオさんは、チェアリングが広まった理由を3つ挙げる。まず1つめは、1,000円前後と安価でイスが手に入る大量生産の恩恵。2つめは、イスひとつではじめられる手軽さ。そして3つめは、バブル期以降から続いた、海外旅行に行ったり高級なものを食べたりする高級志向から、自分にとってムリのない範囲で楽しさを見出だそうという動きに変わりつつある社会背景だ。

 「サラリーマンをしているとストレスが溜まることがありますが、月に1度、高級なレストランで食事をすることを楽しみに仕事を頑張る人がいますよね。それももちろんよいと思いますが、でも僕は月イチの楽しみじゃなく、毎日仕事終わりにお小遣い程度のお金でお酒を飲みたい。日常がちょっとだけ楽しくなるようなことを探したいんです。そんな風に考える人が増えているのではないでしょうか」と考察する。

<快く取材を受けてくださったスズキナオさん>

 実際、アウトドアに行くためには、前もって計画が必要になったり、行った先でもテントを建てたりご飯を作ったりと意外と体力を使う。高額な費用をかけて用具を揃えて向かったが、帰ってきたら疲れていたということもありがちだ。その点チェアリングならば、やりたくなったらすぐにイスを持ち出してできる上、安価で非日常が手に入るのだ。

イス選びから場所選びまで
今日はどこでやってみる?


 「私を熱くするこの思いを誰かに伝えたい」ということで、チェアリング未体験Aさんにチェアリングを実践してもらい、その初体験と2回目を追った。Aさんは、平日はサラリーマンとして働く、映画鑑賞が趣味の30代。「チェアリングを聞いたときは、面白そうだと思いました。普段からまち歩きなどが好きなので、すぐにやってみようと行動に移しました」と気合いは十分。

 まずはじめは、イス選びから。今後のチェアリング人生を左右する大きな選択だが、Aさんのイスに対する条件はいたってシンプル。「持ち運ぶものなので、軽いことを重要視しました」と選んだのは、ポンコタンオンラインの ポンコタンチェア(3,980円・1.2キログラム)。折り畳むとリュックの中に入る大きさでありながら、骨格はしっかりしていて座り心地は抜群だ。「このイスには肘掛けがないので、飲み物を置くドリンクホルダーがないんです。だから、家にあった折り畳める収納ボックスを逆さまにして、机として使うことにしました」とこちらもリュックに入る大きさだ。2つ合わせても1.83キログラムと、アウトドアグッズとは比べ物にならないほど軽量である。

 Aさんのチェアリング初体験は3月某日。お花見シーズン真っ只中のこの日、浮かれて賑わう花見客に背を向けてチェアリングする覚悟で降り立ったのは、阪急西宮北口駅だ。「チェアリングの基本は『とりあえず水辺』だとウェブ記事に書いてあったので、まずは水辺でやってみようと思います」ということで、西宮の街中でチェアリングに最適な水辺を求めることにした。

 しかし歩けど水辺は見つからず、私は同行している身でありながら「もうこの住宅街にある公園でよいのでは」と音を上げた。「公園のように人が滞留しているところはチェアリングに向いてないと思う。そもそも子たちが遊び回っている場所で飲むのは、モラルに欠ける」と却下。その後30分以上歩いてたどり着いたのは武庫川河川敷。ここは、水も人の流れもある、チェアリング初心者にとって最適の場所だった。

 何が最適だったかというと、人通りが少ないので座るまでのハードルが低いこと。キャンプ場でもない場所にイスを広げることは、意外にも周りの目を気にしてソワソワするのだ。しかしイスを広げて座ったら、そこはもう自分の居場所。さっきまでの妙に落ち着かない気持ちは消え去り、「ここに座るために長い距離を歩いたのだ…」と感じるほど、納得感と達成感が生まれる。

<ようやくたどり着いた武庫川河川敷。右がAさんのポンコタンチェア>

 阪急西宮ガーデンズで調達したビールと、おつまみを広げてチェアリングを満喫した。ランニングをしている人や自転車に乗った親子が通り過ぎたり、犬の散歩をしている老夫婦がいたりと、近くを通る人を見るだけでも楽しい。その上、川の水面が見えるので、水の流れを眺めたら汚れた心も清らかになる。一見なにもなさそうな河川敷が、どこを見ても新鮮に写り、少しずつ心が穏やかになっていくことを感じた。「座ってからの気持ちよさは、何にも代え難い至福の時間でしたね。自分たち以外の人が日常生活をしているなかで、自分だけが止まっているみたい。自分たちだけが腰を据えているのが不思議な感覚で面白かったです」。

 Aさんはチェアリングをすることで、思考が整理されるような感覚があったという。「忙しない日常生活の中では、ゆっくり自分に向き合う時間はありませんが、チェアリングは周りの風景や人に自分を投影して眺めることができるので、思考が深まるような気がします」とのこと。最後には「武庫川には始めて訪れたけど、もう既に愛着が湧きました。短い時間でしたが、武庫川のことを好きになりましたね」と街への愛着も芽生えたと言ってくれた。

 座ってから2時間も経たないうちに雨が降り出したので、今回はここで終了。「あっ雨だ」と思ったら、すぐに片付けて店に入ることができる身軽さは、チェアリングの最大の魅力だ。雨をさけて小走りで河川敷を後にしながら見た大きな虹は、一生忘れない思い出となった。

<最後に見た虹。チェアリングにはイスを置いてお酒を飲むだけじゃない醍醐味がある>

まちと人生を俯瞰する、
まさに至福のひととき。


 Aさんの2回目のチェアリングは、大阪スカイビルの公開空地で行った。公開空地とは、ビルの周辺に作られたオープンスペースのこと。建築基準法の総合設計制度で、一般に開放された空間を設ければ、面積に応じて容積率や高さの制限の緩和が受けられるのだ。しかし実際はあまり使われていなかったり、ベンチがなく座ることができなかったりする。そんな公開空地こそ、都市部のチェアリング・ベスト・スポットになり得るのではと、期待を込めてこの場所を選んだ。

 大阪駅近ということもあり、ルクア1100のバルチカでワインと生ハムを調達してからスカイビルへ。意気揚々と向かったものの、今回は座るまでのハードルが高い。やはりリュックを下ろしてイスを取り出し、おもむろに広げるには人目が多すぎるのだ。常に人が行き交い、備え付けのベンチには多くの人が座り、中央の広場ではマルシェイベントが開催されている。どこに座るか迷っているうちに、だんだんとチェアリング欲が萎んでいく。

 場所選びのポイントは、周囲に威圧感を与えないこと。「私たちは周囲に配慮しながら行っている」ということをアピールすることが重要だ。例えば、荷物は広げすぎないこと。大勢で行うと声が大きくなったり、占有するスペースも広くなったりするので、少人数で行うこと。また見た目で損をしないように、こざっぱりとした服装で行うことも大切だ。スズキナオさんも「話したら退いてくれそうと思わせることが大事。オシャレにする必要はないですが、そう見えていたら得ですね」と話す。

 スカイビルの公開空地では、備え付けのベンチとベンチの間に紛れるようにイスを広げ、通行の妨げにならないよう配慮しながらチェアリングを行った。でも座ってみたらあら不思議。さっきまでの人目を気にしていた心細さは消え去り、「みなさんもご一緒にチェアリングはいかが?」と誘いたくなるほど気分が良くなる。この「心細さ」が「心地よさ」に変わる、自分の心の鞍替えだけでも体験してもらいたいものだ。

<スカイビル東側にあるベンチの隙間で決行>

 スカイビルでのチェアリングは、グランフロントが見える位置で行ったので、目の前は青々とした木とその隙間から覗く高層ビルという眺めだった。この日は5月の晴れの日で、太陽にあたった葉っぱがキラキラと、奥に見える高層ビルがギラギラとしていて、自然物と人工物の対比も面白い。普段は遠くからゆっくりとビルを眺めることがないが、改めて見ると大きな動物のようで、今にも動き出しそうな迫力がある。あのビルの中に何百人、何千人という人がいて、その一人ひとりにそれぞれのストーリーがあるのか…なんて、時間と心に余裕があるからこそ感慨に耽ることもできる。そんなことを考えながら昼間から飲むお酒は、間違いなく美味しい。

 Aさんは「自分の住んでいるまちや自分自身の人生について、俯瞰的に見る時間になった」と大満足。「次は屋上でやってみたい」と、私のチェアリング普及活動は実を結び、チェアラー仲間が一人増えた。

選択肢にチェアリングがある
それが人生を豊かにするのだ


 チェアリングは、一見地味なアクティビティかもしれない。しかし騙されたと思って実践してみていただきたい。「手軽にできるのに、こんなことでも楽しいんだな。これで十分心が晴れやかになるんだ、と気づくと思います」とスズキナオさんもオススメする。気持ちの赴くままに座る場所を決めて、やめたくなったらやめる。そんな自分の時間をコントロールすることは、都市部で忙しなく働く私たちにとっては新鮮だろう。

 わざわざ家の外に出て公共空間にイスに置くことは、予測できない要素に包まれることでもある。「自らテレビやSNSなど情報を得る媒体を用意しなくても、チェアリングだったら、座っているだけで向こうから面白いことがやって来る状況ですよね」。それをスズキナオさんは「まるで映画のよう。4Kで絶えず上映されているものを、ようやく今イスに座って眺めはじめた」と表現する。音、匂い、風景、温度など五感を使ってまちを体感することで、きっといつものまちが違って見えるだろう。世の中はいろんなことが同時に起きていることを感じながら、まちの風景をあてにお酒を飲む。それも花見の時期だけじゃなく、1年中。なんて手軽で最高な娯楽なのだろう。

<ゆったりとした時間の流れに身を任せることで、見える風景がある>

 想像してみてほしい。天気の良い日曜日の昼下がり、特に予定はない。ぽかぽかとした陽気に誘われて外出したいと感じたとする。しかしアウトドアに出かけるには、用意もないし、明日からの仕事に支障が出るほど体力も使いたくない。ショッピングに出かけるのは、人が多く疲れそう。でも家に引きこもっているのはもったいない。

 そんなとき、「チェアリング」を選択肢に入れてほしいのだ。イスと読みたかった本を小脇に抱えて、近くの川沿いに出かけてみてほしい。そこにお酒があれば尚良し。きっとあなたの日曜日の午後は充実したものになるだろう。いつものまちが違って見えたころには、あなたもチェアリングの虜だ。そこからは、飲み会の選択肢のひとつにチェアリングが入り、デートの提案にもチェアリングが挙がる。天気の良い日に「今日はチェアリング日和だなぁ」とつぶやいていたら、きっとその時、あなたの人生は豊かになっているだろう。



 この記事は宣伝会議「編集・ライター養成講座 関西27期」の卒業制作として作成したものです。取材させていただきましたスズキナオ様、A様、本当にありがとうございました。


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