143試合目ー札幌ドームがピンク色に輝くー田中賢介は、ちょっと不思議な名選手だったー

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143試合目 F×Bs 1対5  札幌ドーム

本当のラストゲームになってしまった。開幕前…いや8月までの想定では、ファイターズは最低でもクライマックスシリーズに出場し、勝ち上がれば日本シリーズに出る予定だった。したがって、この「143試合全部書く!」イベントもポストシーズンに突入するはずだったのである。

しかしながら、夢は破れ去った。札幌ドーム、最後の主題は、チームの勝敗ではなく、現役引退する田中賢介をいかに送り出すか、に定まった。

賢介には、多くの熱いファンがいる。わたしがここで、くどくどといかなる選手かを説明する必要も蓄積もない。いつものように、自分中心で、わたしにとっての田中賢介についてを、書こうと思う。

賢介のことを思うとき、いつも彼は、ピンスポットの中にはいない。

2006年、日本一のシーズン。一軍選手に定着するが、チームの主人公は、新庄剛志であり小笠原道大でありダルビッシュ有だった。

2007年リーグ連覇、賢介は二遊間に定着し、大活躍をしていた。多勢の賢介ギャル(当時の表現です)を獲得、大変に人気があった。しかし1番人気は、新庄の後を継ぐ森本稀哲だったし、マダムの心をがっちりキャッチの稲葉篤紀が君臨し、大看板は、ダルビッシュ有であった。

2015年、アメリカから戻り、ファイターズに復帰。優勝を託された。若いメンバーにはできないゲームコントローラーとしての仕事を任される。翌2016年、肩を痛めながらも二塁手でフル出場。悲願の日本一達成! 賢介なしではあり得なかったが、ファイターズどころか球界のビッグスターは、野球星人、大谷翔平であるしかなかった。

そのようにして田中賢介は、いつもチームに欠かせない大事な選手でありながら、看板スターがどっかりと座るベンチの中で、後ろの方に慎ましく控えて座っているような選手であり続けた。だからと言って地味なわけでもないんだけどね。

引退試合が終わった後、賢介自身が「いつもちょっと足りない野球人生だった」と語っていた。最後のシーズン、チームは5位。最後の打席のヒットで1499本。確かに有終の美を、飾ったとは言いづらいかもしれない。

でも、わたしは思うんだ。

今年の賢介の仕事の多くは、例えば、本物のエースを目指す有原航平の隣で、なにくれなく話しかけ、無駄に緊張させずに力を発揮させたり。例えば、チームが負けそうな時に、代打で出てきてホームランをかましてみたり。みなが相手投手を打ちあぐねるゲームで、手本のような右方向へのヒットを打ったり。拳士がミスして勝ち越されたゲームをひっくり返してくれたり。

例えばまた、ひよっこだった中島卓也を引っ張り続け、一人前のプロ野球選手、一流のショートストップに、育てあげてくれたように。

賢介自身には、ちょっと足りなかったピースは、チームの足りない場所に、きっといつもはめ込まれていたのではないのか。だからこそ田中賢介という選手は、ファイターズのベンチに必ずや、居てくれなければならなかったのだと。

来年からは、もう、そういうあなたはいない。

これからは、若い人らが、そういう大人になっていくために。賢介は欠けたピースをそっと置いていくんだ。

三馬鹿トリオと呼ばれ、コーチの話を聞かない、頑固でわがままだった少年が、青年となって個性を発揮し自らの仕事をなし、晩年は、人のために野球をするようになり、その選手としてのプロ野球人生を終える。

東京から移転してきて16年目ー北海道日本ハムファイターズという一つの物語を、一緒に生きてこられた。

そのことこそに、大きな声で、賢介コールをかけたい。

ありがとうございました。

わたしたちの田中賢介。



ファイターズ 65勝73敗5分  2019 パシフィック・リーグ 5位に終わる









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