令和ポップスに感じる違和感の正体

音楽が大好きだ。特にポップスが大好きだ。

しかし令和に入ってから違和感を感じる曲が多くなり、昔の曲ばかり好んで聴くようになってしまった。

レベッカ、ジュディマリ、ジッタリンジン、たま、プリプリ、スピッツ、ミスチル、B’z。
小室ファミリーの台頭、浜崎あゆみが紡ぐ絶望と孤独の世界、宇多田ヒカルの鮮烈な登場、ディーバと呼ばれたUAやMISIA。

しかし最近の音楽にはどうも馴染めない。
この違和感の正体はなんだろう?
ずっと考えて答えが出ないまま。

最初はボカロの出す電子音のせいだと思った。
でもピコピコサウンドや電子ボイスは昔からあったよな。
Perfumeも嫌いではない。

違和感の決定打はYOASOBIの『群青』だった。
歌詞もメロディも声もめちゃめちゃ良い曲だ。
しかし強烈に感じるこの違和感の正体は?

自分の中に落とし込むため、原曲に忠実に歌ってみることにした。
すると練習し続けていくうちにだんだん見えてきた。


『前奏』と『休符』がない。

前奏が全くないか、極端に短い。
だから聴き手に準備を与えない。

休符がないので【間】が全くない。
急かすように先へと急ぐメロディ。
息継ぎができなくて呼吸が苦しくなる。

聴いてみるとYOASOBIの多くの曲がそうだ。
藤井風も類似している。休符がない感覚だ。

どうしてだろう?
時代はどうしてそういう音楽を流行らせているのか。
昭和や平成の音楽の状況との違いはなにか。


それはYouTubeやapplemusicなどの動画配信サービスの台頭だ。


ラジオやTVやライブ、もしくはレコードやCDから音源をとることしかできなかった時代。
音楽は大切にゆっくりじっくり聴くものだった。

エンタメの中心が配信サービスに移行していくと、音楽はいつでも無料で気軽に観たり聴いたりできるようになった。
加えてスマホの普及に長引く不況とコロナ禍突入。
人々はCDを買うことやライブに行くことをやめ、配信サービスに音楽や動画の中心を移した。
そこには、無料ゆえの丁寧さがなくなった。
動画を倍速で観るようになった。
映画も倍速で観ている。
なんなら3倍速でも。
CDアルバムは、細切れに1曲1曲買って聴けるようになった。
動画も音楽も次々といろんなものを飛ばし気味に次々と味わうようになった。
不況とコロナ禍でお金もコンサートもライブもない。
無料か低料金のサブスクで、音楽は聴き捨てるように流していくものに変わった。

ひな壇に座った芸人たちがマイクを向けられたら瞬時に面白いことを言わないと干されていくように、音楽も倍速の時代に対応したものが受けるようになった。
前奏なんて入れていたら、ましてやそれが長いものなら、聴き飛ばされてしまう。
最初の一瞬で、印象ある曲にしなければならない。
倍速で動画を観るのに慣れた耳に、心地よく聴かせなければならない。
この倍速時代には、前奏と休符は『干されてしまう』危険があるのだ。

作り手も変化した。アプリで声や曲を作れるようになり、機材機器も進化した。
SNSやYouTube時代は、作れば直接不特定多数に届くようになった。
TVやラジオに媚びなくてもよくなったから音楽の質が変わった。
オーディションで選び抜かれたり、発声訓練で鍛え上げられたオーラなどなく、機材を駆使して軽い感じで歌いあげる手法が台頭するようなった。


私は言いたい。
映画は倍速で観てはいけないのだ。
音楽には前奏も休符も必要なのだ。

それを余韻という。

中国の恋愛映画の名作『初恋のきた道』を倍速で観たらどうなるか。
チャン・ツィイー演じる主人公の辺境の少女が、ただ毎日恋焦がれる教師に弁当を作って丘を走りまくるだけの動画になってしまう。
初恋が持つ甘酸っぱい余韻は全く伝わってこない。


前奏があるからこその余韻。
休符の間。
これらがない令和ポップスには、昭和生まれの私はもわっとした違和感を抱いてしまうのだ。


















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