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体験記をSNSにつづるのは是か非か

著者の心は無事なのだろうか

 婚活やマッチングアプリをしている人の体験記はブログ記事やエッセイマンガとして多く存在し、アメブロでは公式ジャンルにもなっています。人気なものは書籍化、ドラマ化もされているので相応に需要があるのでしょう。

 特に、「こんな変わった人に出会った!」という体験を面白おかしく書いた記事がよく見かけられ、私自身、読んでいて面白いと感じることも多いです。

 しかし、このような「面白い」体験を書き続けている人の心は果たして無事なのだろうか?毎回そう感じます。

心の闇が循環していないだろうか

 それに警鐘を鳴らすカウンセラーの記事も少数ですが見受けられます。

 記事を面白くしようとすると「毒舌」になって相手を批判的に、罰するかのように書いてしまいがちです。辛い出来事の追体験になって、自分の負の感情を掘り下げて気持ちがさらに落ちていっているような記事もよく見かけます。

 良い面に目を向けるなら、読者が「こういう人には要注意だ」「自分もこんなことをしているかも知れないので気をつけよう」と何らかの教訓を得ることはあるかも知れません。

 だけど著者自身の人生においてはどうでしょうか。自分の考えを整理したり、毒を吐き出してストレス解消したりするのが目的だと思っているかも知れませんが、何カ月、何年もかけて自分の心の闇を書き溜めたあげく負の循環が生じているものも多い気がします。

 創作もしくは広告などで収入を得る目的なら本人の自由ですが、幸せになりたいと願っているなら、書くことがかえって悪い影響を及ぼしている気がしてなりません。何年もネタが尽きず書き続けられていること自体、悪い方には進んでも良い方には進んでいない気がします。
(あるいはブログ記事の運営としては良い循環なのでしょうか…)

言葉で話すのと記事に書くのは同じかどうか

 心の健康のためには、不満を溜め込むよりも、適度に愚痴として吐き出した方が良い、というのは近年よく聞くようになりました。それ自体はそうだと思う部分もあります。

 それでも愚痴は基本「ここだけの話」として終わらせるものだと思います。記事に書いて不特定多数の人に読まれ、「いいね!」や「スキ」が付いて承認され、期待に応えようとさらに面白い記事を提供しようとすると目的が変わってしまい、極端な場合、より衝撃的で悲劇的な記事を提供しなければならないという一種の義務感にかられるかもしれません。

 もし一転して幸せな展開になったら、その時は読者に祝福してもらえるかも知れませんが、急展開が起らない限りおそらく閲覧数は激減します。幸せなお話は退屈であり、妬ましく感じる人もいるでしょう。

記事に書く手は止めて相談してみてはどうか

 記事を書くのは習慣になってしまっているが、いいかげん心の安らぎを得たいと思っているなら、記事を書く手は止めて、婚活・恋活関連のカウンセラーに相談してはいかがでしょうか。

 そんな人たちに相談すると結婚相談所に勧誘されるから嫌だ、と言う人も多いでしょうけど、気が進まなければはっきり断れば良いだけですし(業者も手ごたえが無い客を勧誘する時間は惜しいので)、相談所ではなく都度払いでカウンセリングを行っている人もいます。

 もちろんカウンセラーとの相性もあります。相手の言うことがどうしても納得できなければ他の人に替えたら良いと思います。しかし、何人か話をして、どのカウンセラーからも色々と指摘されるようであれば、不快に思うのをこらえて、指摘されたことを冷静に受け止めてみた方が良いと思います。