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「図書館の本を全部読む」そして「考えることはただ(無料)」

 父母から勉強をしなさいと言われたことがなく、それなりに生きてきた。テスト結果や受験などにも一切言葉を挟まぬ父母だった。
 ただ二言、私が物心ついた頃からの父の口癖があった。「図書館の本を全部読む」と「考えることはただ(無料)」だった。「図書館の本を全部読む」という口癖を表面だけあげつらい字句どおり捉えてしまうと訳の分からぬことを言う父でしかなく、「考えることはただ(無料)」もまた、その言葉を表面だけなぞるだけだと、それは当たり前のことだろうと終わらせてしまうかもしれない。
 ただ、数十年生きてきて、私は父のこの二つの考え方に感謝している。
 1990年代の初め頃、アメリカ東部のボーディング・スクールのドキュメンタリー番組に関わったことがあり、その学校の教師の言葉に「あ!」と驚いた。そのボーディング・スクールの教育方針は「学際的であれ」というものだったからだ。英語では"Interdisciplinary"で、既成の学問の枠を超えて幅広く学ぶことと言えば良いだろうか。「あ!」と驚きながらその番組制作を終え、改めてその驚きを咀嚼してみると、やはり父の言葉「図書館の本を全部読む」の真意と同じだった。図書館へ行くと、棚ごとにジャンル分けされて本が並んでいる。小説、歴史、経済、美術…等々。当然人は好き嫌いがあるだろうから、小説なら小説のジャンルを楽しめば良い。ただ、自分の興味の範囲を狭めておくのは勿体無い。国語学から言語学、言語学から文化人類学、文化人類学から哲学、哲学から物理学、物理学から宇宙や地球物理学…とすべてのジャンル分けされた学問は関係しており、そのジャンル分けの枠を超え互いに影響し合ってきたのが人類知識の歴史なのだが、そのダイナミズムを教えてくれる機会はあまりないようだ。小学校に入学すると、算数・理科・社会と便宜的に教科に分けられ、それはそれで学びにとっては有効だけれど、「何かを知り、生かす」のが知識だとするなら、そして知識とは何だろうと考えるならば、やはり学際的な姿勢を持ち続けていることはとても大切なことだと思う。「図書館の本を全部読む」と言っても全部読めるわけがない、それは学際的な視野を持つことだと、父は教えてくれたはずだ。
 そして、「考えることはただ(無料)」。
 昨日と同じ日常が今日もあり、そして明日もある、と思って私たちは生きている。それはとても気楽だし、絶えずあれこれ考えあぐねて生きることほど大変なことはない。ただ、頭の中で考える時に使う頭の中の言葉や考え方は、気楽に生きたいからそんなに易々と変えることはないものだが、側から見れば、あるパターン化された考え方に陥っているように見える。
 頭を柔軟にという言い方があるが、誰かの言葉ばかりを記憶して自分で使うことだけでなく、自分の頭の中で考えてみるのはとても大切なことだ。特に齢を重ねると「頭が固くなる」と言うが、自分で考えることを放棄した結果ではないかとも思っている。
 「考えることはただ(無料)」だから、色々考えてみれば良い。自分なりの言葉で。すると、凝り固まった考え方だけではない、自分なりの考え方が見えてくるはずだ。
 ある日、父が何故この二つの言葉が口癖だったのかを考えていた。その日は父が亡くなった夜で、お通夜を終え、一晩お線香を絶やさないように夜通し起きていた夜だった。
 戦前、野球選手として後楽園イーグルス入団という話になったものの、召集令状を受け取り、満州に行き、そして復員兵として戦後を生き始めた父だった。戦時中のことをあまり語らぬ父だったが、おそらく、そうした戦争体験が背景にあったのだろう。より広く物事を見てより自由に物事を考えることの大切さを、子供だった私に伝えようとしてくれたようだ。
 テストで良い成績を取るのが「教育」というならば、この父の言葉は余計なお世話なのだろうが、そこに一回きりの人間としての「教養」があるかと言えば、答えは一つだと思う。
 「図書館の本を全部読む」と「考えることはただ(無料)」。
 とても荒々しい言葉だが、私は父に感謝している。 
 今も、日々学び直し、学び〈足す〉のを楽しんでいる。 中嶋雷太

#私の学び直し


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