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第二話 父のスパイク


 十月で一学期が終わると、十一月二日は「死者の日」のお祭りだ。
 屋台を営む祖母・ジャスミンにとっては外に出ればかき入れ時なのだが、八十歳を超えた老体に鞭を打つほど元気ではなかったから、その日は完全休業で、ドリーム・ヒルズで催されるお祭りを楽しみにしていた。

 レオンは、四月と五月の夏休み(レオンの国ではこの二カ月が夏休みだった)に週二回サッカーの練習に通い、ようやくボールのさばき方が身についてきた。ただ、身長が百三十センチに満たない小柄で痩せぎすなレオンは十五人の中で一番小さくて、紅白戦をしてもボールの競り合いではいつも転んでいた。あのエリカ・ペレスはすでに百五十センチを超えていて、エリカが身体を入れてボールを取りに来ると、レオンは軽く飛ばされた。
 ただ、コーチのアンドレア・カスティーヨの目はレオンが宿しているものをしっかりと見抜いていた。紅白戦二十分を三本、計六十分を全力で走り回っているのはレオンだけだった。気温三十度、湿度八十%のこの国のピッチの上で、攻守ともに集中力を切らさず走り続けるサッカー選手など、どの年齢層にもいない。子供だからといって侮ってはいけない。レオンの心肺能力は化け物レベルだった。
 レオンの柔らかなボールさばきも天性のものだと見抜いていた。ボールを受け、そしてパスを出す、とても簡単なことのようにみえるが、毎回受け方と蹴り方は異なるもので、一番大切なのは赤ん坊を抱えるように柔らかくボールを受け、状況に合わせたスピードとコースでボールを蹴ってパスを出さねばならない。
 そして、味方も相手も両チーム全体の動きを捉える感覚だった。レオンは鋭い感覚で複数の人間の動きを嗅ぎ分け、自分がとるべきポジションをとっていた。

〈レオン・メンドーサは、もしかすると…〉とカスティーヨは、膨らむ期待を抑えながら、腕組みをし、静かにレオンの動きを見つめていた。

 ところが…。レオンはサッカーの練習から帰って来ると、ドリーム・ヒルズの路地裏で駆けっこしたり、マジソン・スクェア・ガーデンでバスケット・ボールをしたり、悪ふざけばかりで、これまでと変わらず遊び回っていた。

「ジャスミン、綺麗な飾りつけ」と「死者の日」用にマリー・ゴールドで飾られた祭壇にニコルさんが驚いていた。
「ありがとう、ニコル。一年に一回、ご先祖様が帰って来る日だから、少しは綺麗にしておかないと、ね」と、ジャスミンは、アイス・コーヒーのグラスをニコルさんに手渡し、路地に出したプラスチックの椅子に腰をおろした。

「今日は、どうしたの。ニコル」
「うん。あのレオンのことだけれど」
「レオンのこと?」
「悪いことじゃなくて…」と言い終えるや、ニコルはカバンから大きな封筒を取り出し、ジャスミンに手渡した。

「これは?」
「ええ。それは、サッカー協会からの資料…」
「サッカー協会からの?」
「そう。レオンがジュニア・チームの代表にどうかって。来年日本からジュニア・チームが来るとかで…」
「あの、レオンが?」

 昨日の夕方、レオンが通うサッカー・チームのコーチ、アンドレア・カスティーヨがニコルさんの家にやって来て、レオンを推薦したいという話が出たという。まだ、すぐにジュニアの代表というわけじゃなく、その候補ということで推薦したいという。

「で、レオンに直接話をするより、まずはジャスミンに話をしようかと思って…」
「ありがとう。ニコル。ただね。私、まったくサッカーのことを知らないの。まして、レオンが、サッカーが上手いのか上手くないのか、まったく分からないから…」
「ジャスミン。実は私も分からない。カスティーヨ・コーチがかいつまんで話をしてくれたんだけれど、ね。一つも分からなかった」
「じゃあ。レオンに訊いてみるしかないよね」
「ええ。ジャスミン、ただ。一つだけお願いがあるの」
「お願い?それは、何?」
「それは、ね。レオンやほかの子供たちには、この街から、このドリーム・ヒルズから出て外の広い世界を知って欲しいの。外の人たちが私たちのことをどう思っているかは分かっているけれど、だからと言って、レオンたちがこのドリーム・ヒルズのトタン板の内側の世界だけに閉じこもる必要性はないから…だから、これはレオンにとって良いチャンスじゃないかと…」
「ニコル。あなたが言いたいことは、分かる。けれど、それはレオン自身が気づいて、自分で超えないと…。私がレオンの背中を叩いて外の世界に押し出しても、レオンは傷つくだけじゃないかな。傷ついて帰ってきて、そしてここの世界に篭ってしまう」
「ええ…」
「でも、大丈夫。あの子はぼんやりしているけれど、芯は強いから。ま、何も考えてないところが良いかもね」

 ニコルさんとすれ違いに、汗だくになり家に帰って来きたレオンは、〈お腹が空いた〉と貝のスープと海老の揚げ物を上手い上手いと食べだした。

「レオン。あなた良く食べるね」
「うん。本当に腹ペコなんだ」
「それは良いことだね。腹ペコは大切。いっぱい食べなさい。あ、そうそう、これ」と、ジャスミンはニコルさんから預かった封筒をレオンの手元に置いた。

「ジャスミン。これは何?」
「あ。なんだか推薦してくれるって。ジュニア何ちゃらに」
「ジュニア何ちゃら?」
「そう。おばあちゃんはサッカーのこと分からないんだけれど、国の代表のジュニア・チームだって…」
「へぇー」と、レオンは興味なさそうに封筒を横にずらし、スープのお代わりをした。

「レオン、じゃあ、推薦してもらうので良い?」
「うん。何だか僕も分からないから…」と、レオンは興味なさそうにスプーン片手に、腹を満たすことに集中していた。

 その夜。「死者の日」の祭壇に、ジャスミンは、レオンの父ジョーン・メンドーサが使っていたサッカーのスパイクを置き、マリア様に何かのお祈りをしていた。真っ赤に赤土に染まったスパイクは、疲れ果て眠りについているようだった。

 そのジャスミンの後ろ姿を、寝ぼけ眼のレオンがベッドから見つめていた。いつも元気で明るいジャスミンが静寂を纏いマリア様にお祈りをする姿に、レオンの踊る心が鎮まっていった。国の代表ジュニアへの推薦の意味をレオンは分かっていた。食事中に封筒を手渡されたとき、飛び上がるほど嬉しかった。けれど、そこに行けば、この街、そして優しいジャスミンから離れていくんだと思い、その喜びを必死になって抑えていた。
 そんなレオンに、蝋燭の光が揺らぐ祭壇に飾られたサッカー・スパイクが「頑張れ!」と声をかけていた。その夜、死者の日の門が開かれ、父ジョーンが祭壇に戻り、慈しみの瞳でスヤスヤ眠るレオンを見つめていたのを、レオンは知らないでいた。

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