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私の美(64)「湯呑み茶碗」

 深蒸しした煎茶を、小さな湯呑み茶碗で愉しむというのを忘れていました。スーパーにも色々な茶葉を売ってはいますが、手を伸ばして手に取ろうとはしません。近くに茶葉を商うお店があるなら、呑気な顔で入店し、お店のおじさんと立ち話しながらお勧めの茶葉を少しだけ買うでしょうが、ないものはないので残念です。
 あのホッとした愉しみは、味覚だけでなく視覚、嗅覚、そして手のひらから伝わる温もりなどが良い塩梅に合わさってくれるのでしょう。
 明治生まれの祖母と実家に住んでいたころは、湯呑み茶碗が何種類かいつも茶箪笥に用意されていて、食事用、玉露用や深蒸し煎茶用など、数種類を日常使いに使い分けていました。
 ちなみに、十数世代続く純京都人の祖母は、湯呑み茶碗のことを「お湯呑み」と言っていました。
 食事用のは大ぶりで、薄めに淹れた煎茶が供されていました。成人し一人住まいを始め、外食にも慣れるまでは、食事を摂るときに薄めに淹れた煎茶があるのが常識と考えていたようです。ドライブの帰途、たまに回転寿司店に立ち寄り、粉で作ったお茶をごくりと飲むと、忘れていた懐かしい感覚が蘇り、なんとも良い気分になります。
 玉露と深蒸し煎茶の使い分けは、祖母のその時々の感覚だったはずですが、お茶うけのお菓子に合わせていたようです。数世代前から祖母の家系が贔屓にしていたある和菓子屋さんが、二十四節気ごとに我が家にその時々の和菓子を配達してくれていたので、二週間に一度は必ず玉露か深蒸し煎茶につき合っていました。
 ただ、苦い緑茶よりもコカコーラやカルピスの方が飲みたい子供の私で嫌々ながらも、和菓子に釣られ渋々とつき合っていたわけです。
 今となれば、祖母のお茶に渋々つき合っていたおかげで、玉露や深蒸し煎茶の楽しみ方を感覚で覚えさせてもらったわけで、祖母には感謝です。
 手のひらに隠れそうな湯呑み茶碗に淹れたトロリとした玉露を口に含むと、苦味に隠れていた甘味やなんともいえぬ風味が踊り出し鼻腔に漂うのを愉しめるようになると、この不思議な世界観にハマりそうになります。
 ただ、日々の生活で良い玉露の茶葉をわざわざ手に入れようとは思わないので、この小さな湯呑み茶碗をたまに取り出しては、その手のひらの感覚だけを楽しんでいます。それだけでも愉しく、心が落ち着きます。
 冬になると熱い煎茶をマグカップに淹れ、フーフー言いながら飲む楽しみもあります。そこには風流なことなど一切ありませんが、それはそれ、マグカップという湯呑み茶碗もまた、お茶を飲むための単なる道具ではなく、マグカップなりの風合いがあるものです。
 煎茶といえば、売茶翁。ある出版社で書籍の編集・企画を担当していた二十代に、煎茶の本の副担当となり、売茶翁という人物を初めて知りました。煎茶道具を両肩にかけ市中を歩き、街行く人に煎茶を愉しませた売茶翁は、とても魅力的で、家の外の煎茶という世界観を教えてもらいました。
 さてと、今日も、寝ぼけ眼で朝カフェです。カフェに煎茶があればと願うばかりです。(抹茶味のなんちゃらではなく)中嶋雷太

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