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ビーチ・カントリー・マン・ダイアリー(16):「のほほんと過ぎる夏日に」

 五月に湘南の地元で開催されるビーチ・マラソン(5キロコース)に応募したものの、振り返ればここ半年以上身体をまともに動かしていなかったことに気づきました。昨年十月に世田谷から湘南・片瀬海岸に引越したので、その前後は細々としたことの処理で忙しく、やがてジムへ行くこともなく、秋が冬となり、冬が春になり、初夏がやってきました。
 夕方、自宅から徒歩数分にある浜辺に、Tシャツにビーサン姿でやってきて、コンビニで買ったアイスコーヒーを飲んでいると、初夏の爽やかな風が心地よく、何もしない時が過ぎゆくのも良いものだと考えてしまいます。
 今日は、ビーチ・マラソンに向けての始動日となり、朝から念入りにストレッチをし、軽いジョギングをして帰宅するや、シャワーを浴びてひと心地。ランチはご近所で寿司をつまみ、満腹感を抱えながらソファーで惰眠を貪っていました。そして日が傾き始めた夕方、浜辺でカフェタイム。静かな波音にカラリと乾いた風が心地よく、心からぼんやりとした時間が過ぎゆくのを楽しんでいました。
 のほほんと過ぎる夏日に、何も躊躇うことなく身を委ねるのも良いものです。詰将棋のように物事を突き詰めることも時には大切ですが、その詰将棋をしている盤上しか見ていない自分がいたりします。もしかすると、九×九の八十一目ではなく無限の目があるかもしれないのにも関わらず、その狭い八十一目だけで物事を考えている場合があります。
 こうして浜辺に佇んでいると、私を包んでいる海や空や浜辺や、そしてそこに存在する風や光が作り出す世界観はまるで禅庭のようでもあります。
 私が十代のころ、実家のあった太秦から嵐山までよくジョギングをしていたのですが、その嵐山には天龍寺があり、夢窓疎石が作庭した禅庭が有名です。すでにある地形を活かしたその禅庭で佇んでいると、自分の人生などまったく見えない十代の私は、一時的にだとはいえ、あらゆるものを捨て去ることができたように覚えています。ただただそこに佇んでいることだけで、日常という重たい意識の服から脱皮したような感覚です。
 たまには、のほほんと過ぎる夏日に混濁した意識を全面的に委ねるのも良いものですね。中嶋雷太

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