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本に愛される人になりたい(2)ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」(中公文庫)/ロジェ・カイヨワ著「遊びと人間」(講談社学術文庫)

 学生時代のことです。何かを議論すると誰もが眉間に皺を寄せ、至極生真面目な雰囲気で……。昔から堅苦しい雰囲気が嫌いな私は、「嫌だなぁ」とか「困ったなぁ」と、まったく違うことを考えたりして、その議論の枠から逃亡することが度々ありました。そもそも気真面目に物事を考えることと、生真面目なふりをすることは、まったく関係のないことなのですが、生真面目な表情や態度を取る方が頭が良く真剣だとアピールしているようで、ある種の演技ではなかったかと想像しています。こうした議論は、言葉を重ねていくタイプのが多く、気づけばそこには人の血や汗や柔軟な感性などが消され、いわゆる頭でっかちな方向に進み、煮詰まるのが一つのパターンだったと思います。あのような議論は、理性的というより、人間臭さのないプラスチックのような言葉を、積み木のように重ねていくような、つまり積み木遊び的なものだっのかもしれません。
 「つまらんなぁ」と枠から逃げていた私の目から鱗が落ちたのが、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)という概念でした。私はホモ・サピエンス(賢い人)に違いないとずっと思っていた訳ですから、文字通りの目から鱗でした。
 ホモ・サピエンスは人間が直立姿勢となり脳が発達したから知性を宿したという考えで、それは間違いではないと思いますが、ある種の理性主義が強まると、人間の本性の部分、人間臭い部分が覆い隠され、ともすれば理性的ではないと批判の的になっいたと思っています。
 「遊ぶ人」という視点で人間社会を考えると、そもそも遊びこそ人間ならではの文化を形作った本質なのだと分かってきます。
 その切り口を教えてくれたのが、オランダに住んでいたヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」でした。1938年発行なので、今からおよそ80年前。日本では昭和13年のことでした。
 本書の詳細は、ぜひお読み頂くとして、オランダ語aardigheid(面白さ)の語源(aard)はドイツ語のArtに対応しており、Artとは、「あり方とか、本質、天性という意味で……『面白さ』とは本質的なものだ」とホイジンガは語ります。映画や映像のプロデューサーや物語を書く身としては、「遊ぶ人」であることは本質的なことなのだと改めて納得し喜んでいます。
 この「遊ぶ人」という切り口で、ホイジンガは戦争、芸術やスポーツにも言及します。一歩後ろに退き、この切り口で戦争、芸術やスポーツを眺めてみると、なかなか世の中は面白いものだと気づきます。
 1938年に「ホモ・ルーデンス」が世に問われてから120年後の1958年、フランスに住むロジェ・カイヨワの「遊びと人間」が発行されます。本書の冒頭序文で「これは…J・ホイジンガのみごとな分析『ホモ・ルーデンス』のあとを受けつぐものである。これは、遊びの体系的な分類の試みである。遊びの研究が明らかにしたその四つの基本的範疇、いいかえればその根本的動機(競争、運にまかせること、模擬あるいは表現、眩暈と失神)が文明にどのような痕跡を残しているかを確証しようとつとめたのが本書である」と語ります。気をつけたいのは、ホイジンガにも見られますが、キリスト教圏の学者が使う「聖俗」感覚と、私のような多神教的な緩い宗教性を纏った者の「聖俗」感覚は決定的に異なっている点ですが、それはそれ、「遊びと人間」もホモ・ルーデンスという切り口をさらに学べる良い本だと思います。
 この二冊を読んでいたころに出会ったのがレヴィ=ストロース著「野生の思考」とヴィーコ著「新しい学」でした。頭でっかちな理性風味な積み木言葉を重ねる前に、人間の本質的な感性が豊かであれば、より良い議論や、物事の捉え方ができるのではないかと、今でも思っています。「賢者顔した阿保」より「阿保顔の賢者」でいたいと願う日々は続きます。中嶋雷太

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