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エッセイ「赤い土の島」

 赤い土の島があります。

 どこか遠くの海に浮かぶ、緑少ない砂礫に覆われた島ではないかとイメージされるかもしれませんが、その島は真っ青な海に囲まれ、豊かな自然とともに人々は静かな生活を営んできました。

 高校生だったころ、オートバイの免許をとり中古のバイク(ホンダのXL250)を手に入れると、休みがあればガソリン代と相談しながら、あちらこちらへと小さな旅に出かけました。いわゆるツーリングの旅でした。
 幼いころに父と魚釣りを楽しんだ琵琶湖の北、弘法大師の高野山、夏にはエメラルド・ブルーの海に囲まれる丹後半島…。自宅のある京都市内からそんなに遠くはないけれど、知らない土地に自分の身を置くちっぽけな冒険の旅に取り憑かれた私は、近畿地方の地図を買い、その時々の思いつきも交えては、妄想を膨らませていました。
 インターネットはもちろんなく、ましてやパソコンもスマートフォンも存在しない一九七〇年代。旅の情報を収集するなら本屋か図書館に行き旅行ガイドブックのお世話になるしかありませんでしたが、バイク・ツーリング専門の旅行ガイドブックは発行されてはいなかったはずです。自転車やバイクの専門誌には、自転車やバイクのツーリング話が掲載されていましたが、出版社が東京に固まっていたこともあり、京都に住む私の行動範囲の旅話は皆無でした。
 アルバイトで貯めたお金を頭の中に置き、オートバイの燃費を考えると、京都からのツーリング範囲は自ずと限られましたが、京都の自宅を中心として360度の範囲を考えると、見知らぬ道と街が数多くあり、私の妄想は無限に広がってゆきました。
 朝早く出発し、夜には帰宅する日帰りがほとんどでしたが、時にはテントとシュラフを後ろの席にくくりつけ、数泊の旅を決行することもありました。京都の丹波あたりの山道を走り夜になると、街灯さえない道路が闇を抱えていました。ただ、十代というのは怖いもの知らずで、道端にバイクを停めると小さな空き地にテントを張り、そのまま夜を過ごしました。食事は自宅から盗んできた鯖の缶詰と食パンでした。
 食事代など頭にない無謀な旅ばかりでしたから、お腹を減らし、ようやく家に辿り着いたものです。
 大学を卒業し、社会人になると旅は広がりを見せ、海外も視野に入りました。
 最初の海外旅行はハワイのオアフ島でした。
 ハワイ大学マノア校で研究者だったおじさんがワイキキの北、アラワイ運河の北のアパートメントに住んでいたこともあり、何かあれば頼れば良いと身勝手な考えだけで、ワイキキ・エリアの西の外れの安ホテルに泊まり一週間ほど滞在する旅でした。今は綺麗なホテルばかりのワイキキですが、一九八〇年代は貧しい旅行者を受け入れてくれる安ホテルが、ワイキキの外れに並んでいました。
 その安ホテルの名前は、コーラル・シーズ・ホテル。
 ワイキキ・エリアの西、ビーチ・ウォーク通りにありました。
 その通り沿いにはくたびれた安ホテルが立ち並んでいて、道行く人も日常を引きづっていて、庶民感が溢れていました。
 数年前にこのビーチ・ウォーク通りを訪ねてみましたが、林立していた安ホテルたちは一掃され、浜辺近くにはトランプ氏の金ピカの豪華なホテルまで立っていました。
 コーラル・シーズ・ホテルは一泊数十ドルのボロボロのホテルで、エアコンは窓置きで、電源を入れると凄まじいモーター音がし、窓ガラスを揺らしました。
 窓ガラスがビリビリと振動するものの涼しい風は一向に出ない代物で、ワイキキにこもる湿気と戦う夜を強いられました。寝汗をかき、眠いのに寝られず、真夜中に起きては水シャワーを浴び、体の火照りをとるのが日課となりました。
 為替レートは円安の時代で、一ドルは百五十円ぐらいでしたから、食事も貧相なものでした。
 私の旅は、まだまだ食を楽しむ旅ではありませんでした。
 旅行資金から飛行機代とホテル代を差し引くと、食事代に皺寄せがきて、節約せざるを得なかったのもあります。背伸びした海外旅行でした。
 ホテルの一階に入っていたABCストアに行き、食パンとハムとチーズ、そしてミネラル・ウォーターとコーラを買い、部屋に戻ってはサンドイッチにして食べるのが主食で、おやつはバナナ一本だけでした。たまに、和食が食べたくなると、ご飯が干からびたスパムおむすびを買うか、近くのマクドナルドに行きチャーメンなる醤油味のヌードルを食べました。ワイキキのマクドナルドにあのチャーメンが今でもメニューにあるかどうかは知りませんが、この醤油ラーメン的なヌードルは、日本から来た貧乏旅行者にとっては救いの神になりました。
 そして、ランチ。
 おじさんは時々ランチに誘ってくれました。
 ワイキキ・エリアからバスに乗り、アラワイ運河の北にあるハワイ大学マノア校の前で降り、広大なキャンパスをてくてく歩いておじさんの研究室を訪ねると、大学構内のカフェ・エリアに誘ってくれました。何を食べたのか記憶にはありませんが、たらふく食べた記憶が微かに残っています。
 コンクリートとアスファルトに囲まれたワイキキ・エリアからも北にそびえる山々が見えてはいましたが、その山々の麓にあるマノア校のキャンパスを歩いていると、オアフ島の自然が身近にあり、山から吹き降ろす風は爽やかでした。
 一九八〇年代になり、ドル円為替レートが円高へと進むと、ハワイ旅行を紹介する雑誌やテレビ番組が数多く作られ、ハワイは身近な南国の島として人気が高まっていきました。ただ、BGMにハワイアンが流れ、ワイキキビーチ沿いの高級ホテルに宿泊し、日暮れにワイキキ・ビーチを眺めながらレストランで食事をし、昼はワイキキかその周辺の観光地をフィーチャーしてはワイワイガヤガヤと笑顔に満ちた「明るい」話題ばかりで、私の貧相なワイキキや、ハワイ大学マノア校の山風などとは異なるものでした。今もそのトーンは変わらず受け継がれているようで、そうした雑誌やテレビ番組を見ていると、昔の海外旅行ガイドブックを手にしているような錯覚に陥ります。
 帰国する前日だったか、おじさんがオアフ島を一周しようと私をドライブに誘ってくれました。ワイキキから反時計回り。ノースショアまで行き、その後は南下するオアフ島東側半分のドライブでした。
 オアフ島の東、クラウチング・ライオンと呼ばれる岩が沖に見えるレストランに立ち寄ると、おじさんとビールを酌み交わし長々と話を楽しみました。二時間ほど話をしたでしょうか、気づけば五、六杯はビール瓶を互いに開けたはずです。
 とろんとした酔眼のおじさんは水平線を指差して、地球の円弧の話をしてくれました。
 京都盆地に生まれ育った私にとり、水平線が緩く弧を描いているのを見るのは初めての景色でした。海辺に生まれ育った人ならそれは「常識」でしょうが、緩く弧を描く水平線は、地球は球体だという実感そのものを、私に教えてくれました。
 おじさんが、その後、何を諭してくれたのか否か、その言葉は消えてしまいましたが、その実感は強烈で情景としてはっきり記憶に残っています。おそらくですが、心に残るその情景に、おじさんが諭してくれた言葉の塊が今も生きていると思っています。
 ノース・ショアから南下するハイウェイで爆睡し、気づけばワイキキの安ホテル前でした。旅行資金はかつかつで、エアコンも効かぬ安ホテルに泊まる若き旅人の私に、おじさんは別れ際に力強いエールを送ってくれたと思います。おじさんもまた、戦争が終わるや必死に働き貧しさに耐えた経験があったようで、時代は異なりますが、私に好感を持ってくれたようでした。
 帰国するや仕事に忙殺され、一泊二日で近くの温泉宿に宿泊するのが精一杯の生活になり、おじさんとのハワイの日々は霞んでゆき遠くへと消えていきました。
 そして、おじさんは亡くなりました。
 一九九〇年代。
 収入が安定し、わずかながらも貯金ができた私は、久しぶりにオアフ島へと旅立ちました。ワイキキ国際空港は変わらず鄙びたコンクリート色で、飛行機から降りるとムッと湿気を帯びた空気が流れていました。入国審査を終えカルーセルでラゲージをピックアップすると、レンタカー会社のカウンターまでたらだらと歩き車を借りました。事前予約した濃紺のフォード・ムスタングの足元はふにゃふにゃしていましたが、馬力は十分でした。
 ワイキキ・エリアの北、アラワイ運河沿いのウィークリー・マンションのチェックイン時間は十五時で、まだ時間は十分あったので、ワイキキ国際空港から東へは向かわず、オアフ島の真ん中を真北へと、ノースショアまで車を飛ばすことにしました。
 時速八十マイルのドライブを楽しみながら「おじさんのドライブでは、このあたりで爆睡していたな」と記憶を呼び覚まし、車窓の風景を楽しんでいると、おじさんの言葉が蘇ってきました。それは、ノースショアからワイキキへと南へ走る車の中でのこと。私は、爆睡していたと思いこんでいたのですが、時々目を覚ましては、おじさんと短い会話をしたのを思い出しました。記憶とは、突然蘇るものです。不思議なものですね。
 「…ワイキキにいるだけじゃ、この島のことは分からないんだ。ここは赤い土の島なんだよ」
 「赤い土の?」
 「そうだよ。赤い土の島。さっきパイナップル畑があっただろ、あそこの土は真っ赤だ。この島の人たちは奴隷のように働いたわけさ。あの赤い土にまみれて…。でも、貧しくて食うために必死になって働いたことは、今となっては、この島にとって大切なことだった…」
 確か、そんな話を、おじさんはしてくれましたが、何を伝えたかったのか、訊き返すことは今では叶わなくなりました。
 北へと伸びるハイウェイはやがて一般道となり、アメリカ軍の基地があり、小さな町がぽつりぽつりと続きます。やがて町並みも消え、なだらかな丘陵を上っていくと、遠くに海が広がります。海岸線はノースショアです。
 丘陵を越えた、真っ直ぐな一本道の両側には真っ赤な土が広がっています。
 赤い土の島は、今も、強い日差しを受け、キラキラと輝いています。
                            了

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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