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本に愛される人になりたい(36) 中村雄一郎著「共通感覚論」

 noteで、「本に愛される人になりたい」シリーズを書き綴り今回で36話となります。
 本と私のつき合いは、皆さんとあまり変わることなく、乳児だったころの絵本から始まると思いますが、小学校に入ってしばらくし、図書館という存在が現れると、私は熱烈な図書館ボーイに変身したように思います。その後ろざさえをしてくれたのが父親の「図書館の本を全部読め」というひと言だったはずです。
 それ以来、ジャンルを問わずあれこれ読み進めているうちに、「学際的」(interdisciplinary)という言葉に出会うことになりました。それは、ボストンにあるボーディング・スクールのドキュメンタリー番組製作に立ち会ったときのことです。その学校の教育方針が「学際的」であることを知り、父親の言葉が正しかったと改めて納得しました。すでに、四半世紀が経ち、そう言い放った父親も自分の言葉など覚えてはいませんでしたが、特定のジャンルだけを勉強するべきだ的な発想が世の中に蔓延しているなか、図書館のなかを飛び回り、ジャンル関係なく貪欲に学べたのは幸せでした。
 さて、今回は中村雄一郎さんの「共通感覚論」のお話です。
 本書に出会ったのは私が大学に入学した1979年で、これはタイミングとしてもラッキーでした。
 大学に入学するまでの教育は、デカルト的な、つまり近代化を推進してきた1+1=2という理性一辺倒の教育だったので、私は苦しくて苦しくてたまらない12年間を過ごしていました。例えば、H2O。酸素原子が一個と水素原子が二個があり、球体が三個繋がっているモデルを理科の先生は示していましたが、私は原子が球体で三個繋がってているなら、球体と球体の間にできた空間には何があるのかと訊ねましたが、理科の先生は完全無視を決め込みました。未だに、あの球体モデルが示す、球体と球体の間に存在する空間に何が存在するのかを教えてくれる人はいませんが。
 また、読書感想文でも心理描写を美しく書けば満点に近いのですが、そもそも人間の心理などぶっ切れで、浮かぶ言葉もざっくりしているのが「私の言葉」だと思っていたので、あまり良い点数はもらえませんでした。小説のなかで人間を描く言葉にしても、「いやいや、普通の人間はそんなにこと細かに精緻に考えないだろ!」というのが多く、私の趣味に合うヘミングウェイや開高健さんなどの、ざっくりとした言葉だけれど、人間のあるがままの心理描写が浮かび上がるような小説ばかりを読んでいました。小説反抗期ですね。
 こうして、12年の苦難を超えて大学に入学すると、私は大きな翼を与えられたように、あれこれ「学際的」読書にさらに没頭し、あらゆるジャンルが連関性を持つことに興奮していました。そして、その皮切りに出会ったのが、本書でした。
 内容はお読み頂ければありがたいのですが、ここで語られる「常識」について、本来は五感の統合体(共通感覚)であったものが、現代は視覚優先主義に陥り視覚以外の感覚を無視する傾向が顕著だというところに、私は目から鱗となりました。
 本書のあちらこちらで、「なるほど」と感嘆符を上げていたのですが、例えば、本書で取り上げたマクルーハン(「人間拡張の原理」)はテレビは触覚を拡張したメディアであると再三言っているにも関わらず、何故か世の中は視覚を拡張するメディアだと捉えているという点も、後年テレビ局で働く私には感嘆符ものでした。
 その時に併読していたのが、クロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」だったこともあり、12年間の教育で鬱屈していた私の脳みそは一気に晴れ上がりました。あの宇宙の晴れ上がりのようなものです。
 ただ、その読後直後の私は反デカルト(反理性)主義に傾いていましたが、その後、アナログがあって手段としてのデジタルがあるように、全感覚(生物としての人間の感性)が先ず存在しての理性なのだと考え始めました。
 本書に出会い数十年経過しましたが、中村雄一郎さんが提示した共通感覚を巡る考え方は2020年代に入ってもなお重要なものであり、より重要性を増していると思います。先ずは視覚優先主義のクリエイティブをどのように超えていけるのかが、当面の課題でもあります。中嶋雷太

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