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マイ・ライフ・サイエンス(14)「暑いね、寒いね」の言語文化のお話

 ここ数年「コミュ力」という言葉がよく使われています。その少し前に「ディスる」という言葉が流行った反動のようにも思われるのですが、よくよく考えると、流行はさておき、他人とコミュニケーションをとるのは生物としては当たり前なことで、今さらな感じもします。
 ただ、この20年ほどでスマホ文化が広範に普及したので、リアルでアナログなコミュニケーションの話だけではなく、バーチャルなデジタル上でのコミュニケーションのことも考えないといけなくなったのかもしれませんね。
 買う気など起こりませんが、コミュ力と銘打った本を本屋さんで何冊か手にとってみました。結論としては、著者の多くが言語学や記号学やコミュニケーション理論などの見識はないようで(おそらく、フェルディナン・ド・ソシュールと言っても、その名前さえ知らぬ方たちのようで)、思いつきの羅列の、かなり怪しい論拠のものばかりでした。たまたま手にしたのがそうだったのかもしれないので、真面目な著者もいらっしゃるかもしれません。
 あと気づいたのは、「ヒトはコミュニケーションが上手くなるべきだ」という幸福感たっぷりの指針があることでした。この逆には「私は、コミュニケーション下手なのでは?」と感じている(著者が感じさせる)読者がいて、それを、どちらかと言うと、著者が「悪」のように取り扱っているところです。
 私の個人的な考えでは、「人は死ぬまでコミュニケーションは下手だ」です。他の生物とは異なり、食べて生きるという単純なこと以外に様々な欲求を抱えているヒト、さらにインターネットなどのデジタルの世界が広がったヒトにとり、他の生物とはまったく異なる複雑で多様なコミュニケーションのあり方を模索せざるを得ないと思っています。
 それでなくても、例えば、親とのコミュニケーションや知人とのコミュニケーションが完璧かと言えば、完璧な訳がなく、ある程度の共通項でコミュニケーションをとっているだけです。親とはいえ、他人のことを分かるわけがありません。
 こんな風に綴っていると、身も蓋もない話になりそうですが、もちろんコミュニケーションの手がかりとなる話にしたいと思っています。
 今朝、私が住む東京・世田谷区は最低気温が14度で、夏から突然冬になったようでした。毎朝通うカフェの常連さんとは「寒いですねぇ」と声をかけ合いました。振り返れば、梅雨明けごろは「暑いですねぇ」と声をかけ合っていました。
 何故、ヒトは、暑くなると「暑いですねぇ」と、そして寒くなると「寒いですねぇ」と、声をかけ合うのかと考えました。
 浅はかな考えかもしれませんが、ヒトが言葉を使うようになったころ、生きるための言葉でコミュニケーションをとったのだろうと想像します。そのなかで、季節が大きく変化すると、生物としてのヒトは互いにその変化を確認しあったのではないかと思います。そして夏支度や冬支度を始めたのではないかと。さらに、健康への注意喚起もあったでしょう。
 これから訪れる季節の変化への対応を促すこうした言葉は、共に生きていく為の、とても原始的なコミュニケーション・ツールだったように思います。
 やがて、数百万年が経過するなかで、この原始的なコミュニケーション・ツールとしての「暑いですねぇ」や「寒いですねぇ」を基本にして、気づけば「かき氷が食べたいねぇ」とか「ダウンの季節ですねぇ」などと、その時々の生活文化言葉を無数に重ねてきたようです。
 話は冒頭に戻り、コミュ力のお話です。コミュニケーションの力の有無などに悩み、悩ませる前に、落ち着いて「私たちの言葉のありよう」を考えれば、何でもない日常の言葉を使うことが、とても尊いと考えた方が良さそうです。コミュニケーションが上手い下手などに気を取られているよりも、何でもない日々の言葉を使えるようになる方が良いと思っています。
 さらに、別に無口でも良いじゃないかとも思っています。変なことを言って嫌われても良い。頭でっかちな良い子面をするよりも、我が身のダメさを知っている方が良いように思います。
 最後に、寅さんの言葉をひとつ。
「自分を醜いと知った人間は、決してもう、醜くねえって…」中嶋雷太

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