見出し画像

悲しきガストロノームの夢想(54)「油煮餃子/油煮焼売」

 1970年代は、冷凍食品が数々売られ始め、冷蔵庫の容積に締める冷凍庫も徐々に拡大していきました。私が住んでいた実家の冷蔵庫も、1970年代後半には冷凍庫部分の容積はかなり拡大していたと記憶しています。
 紐解けば、1930年に「イチゴシャーベー」という冷凍いちごが日本初の市販冷凍食品だそうで、1964年の東京オリンピックや1970年の万国博覧会などを大きな契機として、冷凍食品は現在のように多様化を見せ、私たちの食生活の一部になりました。(まるで冷凍食品の歴史家のようですね)
 食欲が日々右肩上がりに膨らむ十代前半のこと。冷凍餃子と冷凍焼売は、私の食の衝動を満たしてくれる大切な食品で、母にねだっては、冷凍餃子と冷凍焼売をかなりの数、冷凍庫に買い入れ冷凍保存してもらっていました。
 下校し夕飯が待てなかったり、夕飯後の空腹を満たす為に、冷凍餃子と冷凍焼売は、必須食品でした。電子レンジでチンして終わりという手軽さもあり、私の成長期をしっかり支えてくれました。
 大学に入学すると、胃袋の興味は食から酒に移行し、生意気にも酒のツマミなどを味わう年頃になり、チンして終わりがどうも野暮ったく、量より質でしょ的な似非美食家きどりの私は、冷凍餃子と冷凍焼売からしばらく遠のきました。
 高校時代から夏冬には中央卸売場(魚)でアルバイトをしていたこともあり、食の基本である素材の良し悪しや、調理の仕方に興味を抱き始めていました。食への工夫が楽しくなってくると、再び冷凍餃子と冷凍焼売にも手を出し始め、とうとう油煮餃子と油煮焼売が私の食に登場しました。そのきっかけは忘れましたが、誰かの食のエッセイで知ったのだと思います。
 外食でも、恐らく油煮系の中華は存在していたでしょうが、大学生の身分では「餃子の王将」か近所の町中華の暖簾をくぐる程度で、世の中華料理店で油煮餃子や油煮焼売が存在するか否かの情報はありませんでした。現在と異なりパソコンもスマホもない時代でしたから、仕方がありませんね。
 大学2年生のころだったか。京都祇園の中華料理店でアルバイトに励んでいました。飲み屋で働くおじさんやおばさんやゲイのお客さんでいつも満席の中華料理店でした。夜11時から明け方の5時ごろまで。当時の学生の平均アルバイト料が500円ぐらいだったので、時給1,500円は破格でした。因みに、中央卸売市場のアルバイト代も良く。朝5:00から11:00ごろまでで、時給が1,200円だったと記憶しています。塾の講師のアルバイトもして、そのお金は飲み代と本代に大方消えましたが。
 その中華料理店では、調理された料理を運ぶだけでしたが、調理人のテクニックを盗み見する楽しみがありました。
 そして、我が、油煮餃子と油煮焼売です。冷凍ものを油煮するタイミングをあれこれ考え、さらにそのタレを作るわけです。砕いたピーナッツダレか胡桃ダレがお薦めです。ちゃっちゃっと時間をかけず、冷凍庫から冷凍餃子や冷凍焼売を取り出して完成させるまで、およそ10分ほどです。しかも美味であるというレベルに達するには、中華料理店のアルバイトで盗んだテクニックを参考にしつつも数年は必要でした。
 社会人になり、東京で生活を始め、私は驚愕の油煮餃子に出逢うことになります。外苑前にあった福蘭という中華料理屋でのことでした。2020年に閉店し、今では幻の油煮餃子となり残念でなりません。ここの油煮餃子は、未だに最高峰にあり、これを超えることは不可能だと思っています。
 失われた最高峰の油煮餃子が遥か彼方にあり、これからの私の油煮餃子/油煮焼売の旅は、第二位を目指す旅になると思います。
 ただ、人生は色々起伏に富んでいますから、もしかすると、福蘭の油煮餃子を超えることがあるかもしれません。ほのかな希望の光を抱きつつ、我が油煮餃子/油煮焼売の旅程は終わりを告げることなく、地平線の遥か向こうへと続いているようです。中嶋雷太

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?