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私の美(43)「反・鯉のぼり。もしくは落差美」

 家々が密集する京都の街中で生まれ育ったので、「甍の波に雲の波…」に泳ぐ鯉のぼりの風景は残念ながら身近にはありませんでした。
 5月の節句になると、床の間に、兜をメインに、虎の張りぼて人形と、太鼓が飾られ、お供えとして中身の入っていないちまきが飾られていました。
 小学校の図工の時間では、画用紙を使って簡単な鯉のぼりを作った記憶がありますが、「甍の波に雲の波…」に泳ぐこともなく、下校するとゴミ箱へ直行となりました。
 たまに、大きな家の庭先に鯉のぼりが飾られているのも見ましたが、大抵ぐったりと垂れ下がり、なんだか鯉のぼりの干物の出来損ないのように見えました。周りに家々が密集していれば、風など遮られるので仕方がなかったのでしょう。
 テレビでは、5月の節句が近づくと、空を泳ぐ鯉のぼりは日本の伝統的な風景なのだと無条件に扱われるのですが、残念ながら私にはピンと来るものではなく、「はぁ、そうですかぁ」と流してしまいます。
 暗い瞳を抱え斜に構えているわけではありません。鯉のぼりが、五月晴れの空に泳ぐ姿は見ていて気持ちの良いものですが、私個人のイメージ、あくまで個人的な心象風景との落差があまりにもあり過ぎていて、心底「良いなぁ」とは思えないわけです。
 長年生きてきて、毎年5月になるとこの落差を感じるわけですが、実は、この落差の面白さに気づいている私もいます。諸手で「わっ!鯉のぼりだっ!」ではなく、この落差を楽しむこともまた、良いなぁと思っています。鯉のぼりに対する一般的な喜びと、私の反・鯉のぼりの「落差美」とでも言えば良いのかもしれません。
 元気に空を泳ぐ鯉のぼりへ一方的な劣等感を抱えるのではなく、この「落差美」を楽しむことも良いのではないかと静かに思っています。
 そう言えば、我が家にはミロのヴィーナス像が何故かありました。社会人になり、仕事でパリに行くことがあり、空いた時間でルーヴル美術館に行き、ミロのヴィーナスの実物を見学したことがありましたが、それはそれ、昭和な我が家に飾られていたミロのヴィーナス像に感じていた私個人の意味の方が、私にとっては深いものでした。そこにも、実物との落差の美があるのかもしれません。中嶋雷太

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