私にとって、歴史「教科書」ほどのエンターテイメント本はない。

歴史の授業はつまらない、とよく言われる。それも理解できなくはない。その原因として、歴史教科書の「無味乾燥さ」が言われる。それも理解できなくはない。しかし、だからこそ、私にとって、歴史「教科書」は、最高のエンターテイメント本になり得た、とも言える。

それならば、私にとって、歴史教科書はどういう位置づけだったのか。それは、一言で言えば「(日本の/世界の)芸能人大名鑑」である。言い換えれば、「私の推し」を探すための「ガイドブック」なのである。

では、どうやって「推し」を探すのか。そのきっかけの一つとしては、ラインマーカーがある。

「ここは試験に出るので、ラインマーカーを引いておいてください」

歴史の授業が無味乾燥と言われる原因となる、お決まりの言葉である。しかし、私の脳は、ラインマーカーを引き終わった後に、にわかに回転しだす。

「なぜ、ここにはラインマーカーを引かなかったのだろう?」

当然、試験に出ないからである。しかし、私にとっては、なぜかそれに納得がいかなかった。授業が終わった後、大体は帰宅してから、「試験には出ない」ラインマーカーが引かれていない箇所の「復習」を始める(苦笑)。

すると、出てくる出てくる。私の「推し」が。ラインマーカが引かれていない部分から、芋づる式に。面白い!あとは、その繰り返しである。こうして、ラインマーカーを引くというだけの「無味乾燥な」作業は、私にとっては、想像の種を見つけるための「楽しい」作業に変わったのである。

歴史教科書は「無味乾燥」である。だからこそ、歴史教科書は、「最高の」エンターテイメント本になりえるのである。ただ、その結果出来上がった「私の推し本」は、私の感性を反映してしまう。つまり、原本となった歴史教科書とは「完全にずれた」全くの別物に変貌してしまう。それもまた、宿命ではある(苦笑)。

最後に付け足し。

それならば、私は歴史「小説」を読むのか、という問いである。結論から言えば、「基本的には」ほとんど読まないである。なぜならば、歴史小説とは、「他人の推し紹介本」だからである。それを、時間を使って読むのは、私にとっては、むしろ「無味乾燥な作業」だからである。

ただ、歴史小説そのものを否定しているわけではない。もちろん、優れた歴史小説は、それだけで価値があると考えている。それが分かった上で、スルーしているのである。こればかりは、時間という資源がかなり限られている以上仕方のない選択だと思っている。

ただ、歴史小説を見かけた時には、「あらすじは」じっくりと読む。その作品で取り上げられている人物が今まで私のアンテナに引っ掛かっていなかった時に、やはり「例の」スイッチが入るのである。「調査」の結果その人物が、「私の推し」に値する人物だった場合、作者には感謝である。もっとも、だからと言って、作品を読むわけではない。作者としては、一番それを望んでいるはずなのだが(苦笑)。


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