音楽は世界を救わない、なんて物言いをするから私は嫌われる。

1.「コアな」音楽ファンが忌み嫌うNGワード

ビーイング系、小室ファミリー、メタル。少なくとも、この3語は、日本の「コアな」音楽ファンからは忌み嫌われるNGワードだ。音楽には触れるけど、追いかけたりはしない「ライトな」ファンは、この3語を知っていても、ピンと来ないだろう。また、「コアな」音楽ファンと自覚していても、若い層であるならば、この話は大袈裟に聞こえるかもしれない。しかし、これは事実なのだ。

なぜ、そう言い切れるのか。それは、私が、この3語に分類される(とされる)音楽に飽き足らず、「コアな」音楽ファンが好む音楽も聞き漁ってきた。だから、「コア」「ライト」両方の音楽ファンの考え方を知っているつもりである。「ライトな」ファンには、私の話はいささか重い。しかし、「コアな」ファンからすると、私の話は「的外れ」なだけでなく、「憎しみ」を呼び起こすものらしい。私は、どちらの「世界」からも歓迎されざる存在なのだ。

正直、「コア」「ライト」という区別はやや図式的すぎるとは思う。あえて基準を設けるならば、音楽で生計を立てているかどうかではなく、どの程度「のめりこんでいるか」という「曖昧で」「主観的な」ものさしになるだろうか。かなり無意味な区分だと言わざるを得ない。ただ、話の都合上、便宜的に使う区分けである。

2.いささか「長くなる」が、例を3つ挙げよう

やや脇道に逸れた。この3語に対する、「コアな」音楽ファンの憎しみがどれだけ凄かったのか。それを示す例を、ほとんど恨み節だが、私が実際目の当たりにしてきた「事象」から、3つ挙げようと思う。

まずは、雑誌『ロッキンオン』について挙げよう。正確には本誌ではないのだが、ファンが交流するインターネットサイトみたいなものがあった。そのサイトを、大学時代の私は閲覧していた。コメント欄では、ファンがそれぞれの考えを述べていた。それ自体は、好きにやればいい。ただ、共通していたのが、この3語の扱いだ。何かを否定する時には、「○○は、メタル」とでも言えば、理由の説明などなくても、「音楽性がない」と即全否定できていたのだ。驚きである。ここに、「アイドル」とか「ヴィジュアル系」を加えれば、完璧であろうか。

それは、実は、最近でも続いている。例えば、『ミュージックマガジン』2022年10月号である。特集は、「1990年代Jポップ・ベスト・ソングス100」であった。私は当然購入した。そのランキングは、ある意味予想通りであった。いや、予想以上であった。ビーイング系アーティストと、小室プロデュース曲は、100曲からほぼ外されていた。「黙殺」と言っていいだろう。私のフェイヴァリットであるZARD(ビーイング系の代表的アーティスト)に至っては、1曲も選ばれていない。おそらく、ベスト200に広げたとしても、選ばれる可能性はなかっただろう。

実際にランキングに出てきた100曲に関しては、異論はない。名曲揃いだ。私も、そのことは否定できない。しかし、あの時代からビーイングと小室哲哉を正面から取り上げない姿勢は、さすがに「不完全」だと言い切っていいと、私は思っている。

ある評論家は、「対象曲は、私が知らない曲ばかりで困った」という意味のことを述べていた。は?知らないならば、全部聞き直せ!お前の仕事だろう!と思う。「硬派な本誌にはふさわしくない曲は除いた」という趣旨を述べていた評論家までいた。は?俺は読みたい。俺は無視かよ?

恨み節は、次で終わりにしよう。

実は、私も、好きな音楽が理由で、そのような「黙殺」を実際に受けたことがある。大学の語学クラスで行われた新歓コンパ(今は死語か?)の後だった。大学の庭でたたずんでいた時のこと。音楽をやっているという人物と会話になった。当然、どんな音楽が好きか、という話になった。私は答えた。「ハロウィンというバンドが好きです」と。

「は?」

怪訝そうな表情と軽蔑のまなざし。その後から、彼と、彼と打ち解けた仲間たちは、私とはまったく口を利いてくれなくなった。ちなみに、ハロウィンとは、ドイツの「メタル」バンドである。だから、今から考えれば、「コアな」音楽ファンである彼(ら)からは、理解できない、もっと言えば許せない「発言」だったのだと思う。しかし、当時の私には、彼(ら)の反応が全く理解できず、かなり混乱した。

ビーイング系、小室ファミリー、メタル。この3語は、「コアな」音楽ファン並びに音楽評論家からは、「本当に」忌み嫌われているのである。それが少しは納得してもらえただろうか。

3.どちらの輪にも入れない「中途半端な」存在

私が体験したことがイジメかというと、微妙である。それ以来、彼(ら)とは一切つき合いはない。今何をしているのかも、全く知らない。だから、気にすることはないのだ。それ自体は、確かである。

しかし、そうも言えない現状もある。なぜならば、私には、いまだに「自分の好きな音楽」について、「忌憚なく語り合える」仲間はいないからだ。たぶん、それは、これから先もそうだろう。なぜならば、自分の好きな音楽について「自己開示ができない」以上、「音楽ファン」繋がりの仲間ができるわけはないからだ。そうなってしまったのは、これらの体験が少なからず尾を引いている、と言ったら恨み節すぎるだろうか。

「うじうじとした」考え方だとは思うが、この点では、私は「人生を損している」と言ってよいと思う。、私は、どちらにも入っていけないのである。

4.やはり私は嫌われる

ビーイング系ブームだとか、小室ブームだとかいうのは、既に30年前の話である。これらのブームを知らない世代も当然増えた。先ほど挙げた、ZARDのボーカル坂井泉水さんのように既に亡くなったり、そうでなくても一線を退いた関係者も少なくない。時の流れは残酷である。30年前をリアルタイムで知る世代ならば、それらの「憎しみ」も含めて、一歩引いて「客観的に」語ることができるはずだと、私は考える。しかし、「コアな」音楽ファン並びに評論家諸氏の中では、いまだに「憎しみの炎」が燃え盛っているらしい。

「音楽は国境を越える」

それは、確かであろう。しかし、私が体験したように、音楽はまた「分断を生む」きっかけになりうるのだ。その可能性について考察しない限り、この言葉は力を失い、ただのお題目に成り下がるだろう。正直言えば、3で恨み節を止めておけば、この投稿を覗いた誰かが事情を理解して、アプローチしてくれるかもしれない。しかし、こんな物言いをしてしまっては、その可能性を潰してしまうのは間違いない。

「お前の性格が悪いだけだろう。音楽のせいにするな!音楽音痴が!」

予想される指摘である。至極当然の指摘だと思う。しかし、私は、恨み節を止めることができない。私が嫌われる大きな理由であろう。

結局のところ、結論としては、私の性格の悪さを改めてあぶり出す結果となった。「性格が悪くなるのも理由があるのよ」と言い訳してみたところで、もはや誰も首を縦に振ってはくれないだろう。残念ながら、手遅れであるようだ。






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