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「小説」という呪い


たぶん私は、ずっと前から呪われていた。
何に呪われているのか? と言うと、「小説」にだ。
小説を読むのは昔から大好きだった。
昔といっても、生まれながらにして好きだったわけではない。私が本当に小さかった頃——母が絵本や子ども向けの本を毎日読み聞かせてくれるぐらい幼かった時代に、一度本を好きになったことがある。
本を、というか、物語を好きになった。
特に絵本は、お話そのものだけじゃなくて、ページをめくると次にどんな絵が現れるのか、ワクワクしながら楽しむことができる。絵本によって絵のテイストが様々なのも、私の物語欲をそそってくれた。
母に連れられて、地元の大きな図書館に行った際には、決まって絵本コーナーで面白そうな本を見つけて来ては、母に借りてもらうのが、通例だった。

しかし、そんな本好きだったはずの自分にも、本が嫌いな時期があった。
小学校2年生から4年生ぐらいまで、私は本をあまり読まなくなっていた。
これといった原因はない。
でも、おそらくだが、本当に幼い頃は母が代わりにたくさんの本を持って来てくれたり、一緒に読んでくれたりしたのに比べて、小学生になると流石にそういうこともなくなり、「自主的に本を読みに」行かない限り、本に触れる機会がなくなったからだと思う。
小学校では、毎日朝礼の後朝の10分間読書タイムがあった。
その時間のためだけに、たまに図書室で無理やり読みたい本を探す。
小学生向けに書かれたシリーズものの本。日曜日の朝にアニメで放送していた「かいけつゾロリシリーズ」、性格なタイトルは忘れたけれど、「お姫様シリーズ」など。
読書の時間が退屈で、朝の読書タイムにはとにかくページをめくることだけに一生懸命だった。内容なんて、さして頭に入ってこない。それぐらい、読書は苦手だった。


しかし、そんな私の読書生活にも転機が訪れる。
あれは確か、小学校五年生の頃だ。
学校で、嫌なことがあった。
具体的に何があったのかはイマイチ覚えていない。たぶん、大人の私からすれば、本当に些細なことで気持ちがいっぱいいっぱいになっていたのだろう。小学校で初めての宿泊行事、自然教室の実行委員をしていたのが憂鬱になったのかもしれない。
とにかく、その日の私は心がささくれ立っていて、明日のことを考えるだけでも嫌な気分に陥っていた。

だから気晴らしがしたかった。
いつもは敬遠していたはずのお家の本棚から、一冊の本を抜き出して、何とは無しにページをめくってみた。
初めはそこに、逃げ場があったなんて、知らなかったのに。
「何これ、面白い……!」
その本は、まるで魔法みたいだった。
ページをめくることが目的だった私の読書を、「お話をもっと読みたい」という前向きなものに一瞬で変えてしまったのだから。
気がつくと、その本の虜になっていた。
はやみねかおる先生の、『夢水清志郎事件ノート』。その中の1作品。
なんて、なんて。
面白いんだろう。
登場人物たちも個性的で、読んでいて全く飽きやしない。

本ってこんなに楽しいものだったっけ!

夢中になって読みふけるうちに、心の底から楽しい気分になって、私は学校での憂鬱な出来事を忘れていた。

そしてその日から、はやみねかおる先生の本はもちろんのこと、図書館にある本たちを進んで読み始めた。
図書館にないものは、お小遣いで、また母に頼んで買ってもらった。
怪人二十面相、チョコレート工場を書いたロアルドダール氏の作品、山田悠介先生、重松清先生、そのほかたくさん。
どの作者、どの物語も、現実世界で沈みきっていた私の気分を盛り上げてくれるのに十分な面白さだった。時に人間関係の教訓を得られる話も多々あって勉強にもなる。

「本が、面白い」
物語が、とても好きだ。
いつの間にか好きになっていた読書が、私のその後の人生を変えてしまった。
書いてみたい。
小説を書いてみたい。

私もこんなふうに、読者を楽しくさせたい!

小学五年生の私の心に灯った小さな炎。
今も燃え続けている炎。
大事にして生きてきた。
中学の頃、本格的に新人賞に応募しようと思い立って、長編を書いた。
手書きの原稿用紙で356枚。今でも覚えている。昼休み、10分休み、給食の前、毎日原稿を書いた。周りの子たちは、私のことを変なやつだと思っただろう。それでも構わず書いた。
書き上げた原稿用紙は厚すぎて封筒に入れるのにとても苦労した。母が、紐でくくってプラスチックのケースに入れてくれたのを今でも覚えている。
ネットで調べて「この賞でいいかな」と思った新人賞主催企業に、原稿を送った。

案の定、結果は振るわず、一次で落ちた。
新人賞というのは残酷なもので、一年かけて書き上げた小説でも、選考に落ちたらフィードバックすらないというものがよくある。たまにフィードバックをもらえることもあるが、それはもう本当に稀だ。
就活の時の面接と同じ。
なんで落ちたのかわからない。どこか悪いのか自覚できないから改善が難しい。
受賞作を読んで自分に足りないものを見つけるのがセオリーだろう。

中学二年生、14歳。
今考えれば、そのとき書いた小説はダメなところばかりだった。
というか、なぜあんな駄文を出版社の人は全部読んでくれたんだろう。いや、ひょっとしたら最後までは読んでもらえなかったかもしれない。
物語の展開はめちゃくちゃで描写も下手くそ。とにかくとにかく駄文だった。

それでも、良かったことが一つだけある。
それは、長編を最後まで書き上げたことだ。
356枚、10万文字以上のお話を、完結させたことだ。
自分でもわからないけれど、一度決めたことを絶対に曲げないという謎の根気強さがあったことが、救いだったのかもしれない。
だから、一度新人賞に落ちたあとも、書くことをやめなかった。
一年後の中学三年生の夏、私は中学生部門でとある文学賞に入選した。短編だった。両親を亡くして義両親の元で暮らす中学生の女の子が主人公の、ヒューマンドラマ。素直な気持ちで書けた作品だったから、運良く受賞にたどり着けたのかもしれなかった。
小説部門で初めて賞状をもらい、小説家になるという夢に一歩近づいたと思った。嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。母も父も喜んでいた。「すごいね」って褒めてくれたのが、また一層嬉しかった。

だから、抜け出せなかった。
私は小説を書くことから、逃げ出すことができなくなってしまったのだ。

「あーまた、ダメだった」
大学三回生。
私は諦められない夢を背負い、短編や長編小説を書いてはネットで投稿したり、賞に応募してみたりすることをやめていなかった。
しかし、大学受験時代や、大学入学後も授業やアルバイト、サークルでなかなか小説を書く時間がとれないことに焦りを感じていた。
というのも、全て言い訳だった。
勉強が忙しくて、サークルが、授業が、テストが忙しくて書けない。
そんなのは言い訳だとわかっていた。
本当に小説家になりたいのなら、それで食べていきたいのなら、夜中でも朝早くにでも書かなければいけないと知っていた。
それなのに、いつしか「書く」ということが苦痛に感じてしまい、こう思う。

呪いみたいだ。

小説という名の呪い。

「私、作家になりたいの」
友達に夢を語るごとに、私には作家になる以外の道がなくなるように感じた。

夢を人に語ることはとても大切だ。
言葉にすることで実現することだってある。
少なくとも、何も言わずにすっと諦めて消えてしまう夢より、言葉にして「いつか必ず」と意気込む夢の方が実現しやすいだろう。

「もう、やめよっかな……」

人間というのは弱いもので、ちょっとでもうまくいかないことがあれば、すぐに逃げ道を探そうとする。
小学生の頃、学校で嫌なことがあって逃げ場を探しに本の世界に迷い込んだ自分が脳裏に浮かぶ。
最初から、間違っていたかもしれない。
最初から、私は逃げていたのだ。
苦しいことから逃げるために、物語の世界に入り込んだのだ。


「私は小説家になるって散々宣言してきたんだ。だから絶対に、諦めちゃダメだ」
 
小説家に、ならなくちゃいけない。

そんなこと、誰が決めたわけでもないのに、気がつくと10年以上同じ夢を見続けていた私は、小説が重たくなっていたことに気づいた。


ちょうど、一年前までは。


今からちょうど一年くらい前、私の所属していたインターンの社長さんが、「Twitterをやろう!」と言い出した。
Twitter。
Twitterをやって、会社に頼らず生きていける人間になるという“ブランド人政策”だった。
直感的に、面白いと思った。
特に私の場合、小説家になるという夢があったため、Twitterで何か発信できないかと考えたのだ。

もともと文章が好きで、おしゃべりじゃないけど頭の中でぐるぐる考え込んでしまう性質の私にとって、Twitterは絶好の場だった。本が好きだったため、本好きの人たちにご挨拶して、少しずつ交流するのは普通に楽しかった。
そのうち某本屋さんでアルバイトも始めて、Twitterでは余計に本好きな方との交流が増える。私の拙い文章を最後まで読んでくださる人たちが現れて、たくさんの感想までいただいた。
泣くほど嬉しかった。
もちろん、もともとの友人たちからの励ましや、「面白かった」という声もとても胸に響いた。
新人賞にただ応募して何の反応も得られなかった私の執筆ライフは、今こんなにも充実したものに変わった。
単に、Twitterのおかげだということはない。
書き続けること、発信し続けること、その大切さをTwitterで知っただけだ。
もし今Twitterをやめても、私は書き続けられる。発信を続けていれば、たとえ受賞できなくても、「面白い」と言ってくれる人がいる。
感動したと伝えてくれる人がいる。
伝えてくれなくても、ひっそりと楽しんでくれる人もいる。
一人でも、私の文章を読んで楽しい気持ちになってくれるなら、それだけで十分だった。

——私もこんなふうに、読者を楽しくさせたい!

本が嫌いだった。
つまらない毎日が終わればいいのにと思った。
現実から逃げ出したかった。
元気にはしゃいだり運動したりするのが苦手で、教室の中では息苦しかった。
今だって、会社で少し息苦しいと感じることがある。いつもいつもそういうわけではないが、私は基本的にはそういう人間だった。

でも、本が救ってくれた。
つまらない日常を、ファンタジーに変えてくれる。
今も変わらず、私を引っ張り出してくれる。楽しい世界に、束の間の安らぎに。

だからやめない。
絶対にやめない。
おばあちゃんになってもやめない。

私は書くことも読むこともやめない。

小説は呪いなんかじゃないと気づいた。

私にとって、小説は私の一部だ。
小説がきっと、私の人生をつくってくれる。





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