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ほら、

喉元で、何かがつっかえている。
就職活動中、電車の駅のホームに降り立つと、いつも少ない水で錠剤を飲んでしまった時のような、いつまでも薬が喉の奥に残っているような、気持ち悪さを感じていた。
子どもの頃からストレスを感じやすくて、普通の人が「何でもない」と思うようなことでも、なぜかすぐにお腹が痛くなる。

ピアノの発表会で、学校のテストで、“それ”はいつもやって来る。
だから、小学校の演劇発表会の朝に、母があるものを私の手にぎゅっと握らせた。

「なに、これ」

「見たらわかるでしょ、安全ピンよ」

ニッと笑いながらそう言う母の前歯が、黄色くぐらついていた。

「なんで、こんなもの」

持たせるの? と続けたかったのだが、母が「ほら、行ってらっしゃい」と力強く私の背中を押したので、私は聞きたいこをその場でゴクリと呑み込んでしまった。
その日の演劇発表会で、私は最後の合唱の伴奏を担当していた。母から渡された安全ピンは、ピアノの譜面台にひっそりと置いて。


「ね、上手くいったでしょう?」

家に帰ると、母がニコニコしながら私にそう訊いた。母は発表会を見に来ていたので、私が練習通りに伴奏を弾けていたことを目の当たりにしていた。

「いつも、間違えずに弾けてるもん」

確かに緊張するし、胃がキリキリしてお腹は痛くなるけれど、何だかんだ踏ん張って成功させていた。
母は、つっけんどんな私の物言いに、「お母さんがお守りを渡したおかげでしょ?」といつもみたいに威張って言うと思っていたのに。

「そうだね、早季はいっつもできる子よ」

なぜだかこの日ばかりは、私が思わず「え」と驚きの声を口にしてしまいそうなぐらい、不自然な優しい笑顔を見せていた。


母が亡くなったのは、それから半年後だった。

「お口の、病気で」

お医者さんが、私を怖がらせないようにできるだけ簡潔な言葉で母の病気を伝えようと頑張っていたのをぼんやりと覚えている。

お口の病気。
その時の私には、母が死んでしまった理由について、それ以上は分からなかったけれど、分かりたいとも思わなくて、ただひたすらに、母からもらった安全ピンを片時も離さないようになった。


カツン、カツン、とパンプスで階段を上る音を響かせて、私は面接を受けに行く会社に向かう。

「君は、ここ一番の勝負のとき、どうやって立ち向かう?」

面接時間も残り五分ぐらいというところで、会社でいちばんエライ社長さんが、真剣な眼差しでそう訊いてきた。
ここ一番の勝負……。
リクルートスーツの上で握りしめた手のひらの中にしまい込んだモノを意識しながら、私は答える。

「亡くなった母から昔、お守りをもらったんです。お守りって言っても、ただの安全ピンなんですけれど。それを持っておけば、どんな大変な場面でも何とか上手く乗り越えられるんです」

言葉遣いや口調が、とてもじゃないが、社長さんに話すときにふさわしくないものになっていた。
私の話を聞いた社長が、フウンと頷きながら、難しい顔をしているのを私は見ていた。両隣に座っていた他の面接官たちも、口を開かない。テーブルの上の紙は、触れられることもなく、忘れ去られたように綺麗なままだ。
握りしめた手のひらに汗をびっしょり書いて、「帰りたい」と二十回ぐらい心の中で唱え終わったとき、ようやく社長の重たい口が息を吸った。

「その安全ピンを、外してみなさい」

ただそれだけ、何の説明もないその言葉が、緊張でぐっしょりと濡れていた私の手を緩ませて。
コツンと、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな小さな音がして、手のひらから安全ピンが滑り落ちた。

「ほら、外れたでしょう」

社長さんが、ニコリと歯を見せて笑った。前歯が、不自然なほど白く光っている。

「外れ、ました」

私もなぜかおかしくなって、社長さんと、隣にいた面接官と、一緒になって笑う。
母がくれた安全ピンは、私の心の安全ピンだったけれど。きっと今日から、一人で立てると思った。


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