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住所不定のモノが多すぎる。

こんまりメソッドはすごいと思う。

物が捨てられない理由は、「過去への執着と未来への不安」この二つだけだとバッサリ。物と向き合い、自分と向き合うことで、片付けが完成する。でも、それがなかなか出来ないのが、人間なのだ。

『モノの住所を定めるべし』が、鉄則。ところがもう、わが家の中は満席満室。分譲完売御礼だ。押し入れ、クローゼットはもとより、棚という棚、引き出しという引き出しはぎっちり隙間がない。それどころか、床に溢れ出た本、衣類、書類が雪崩を起こし、住所を求めて待機中だ。そのような住所不定のモノたちが、夜な夜な恨みのこもった念を充満させている。

わたしは明治生まれのおばあちゃんっ子だ。「もったいない」が口癖で、「全てのモノには魂が宿っている」と教えられた。大事に使うんだよ、丁寧に扱うんだよ、と繰り返し刷り込まれ、穴の空いたセーターも、使いかけで放置しているノートも、「まだ使える」「何かに役立つ」と、取っておく。今後の自分に必要ないかもな、とうすうす気づいてはいるものの、『捨てる』ことに罪悪感がつきまとう。わたしにとって捨てることは、悪なのだ。

「昭和50年以降に生まれた人の家は片付いているのよ。それ以前の人は、モノを溜め込むからダメね」と言った友人がいる。わたしは血液型占いみたいな、こういう大雑把な括りは嫌いなのだが、彼女の持論に揺るぎない自信を感じたので反論はしなかった。

その友人が、自宅の一部を他人に貸すことになり、物置がわりに使っていた2部屋を大掃除したいと言ってきた。バイト代を払うから、手伝って欲しいと言う。エプロンを持って出かけていくと、そこには彼女が結婚してからの20数年分の品々がうず高く積まれていた。二人の子どもの愛用していた服や、使いかけのノート、クリスマスツリー、自分が旅行で買ってきた様々なインテリア小物、外国のステキな布、食器、有名ブランドの洋服やバッグ。ここでガレージセールを開いたらいいんじゃないかしら、と提案したら「そんな時間はないのよ」と一蹴された。彼女も思い切って、けっこうな量を捨てた。しかし、「もったいない」「まだ使える」の連発。そして「これ、お嬢さんに持って帰らない?」「これはまだ使えるのよ。もったいないわ。持って帰らない?」と問題集や、使いかけのノート、ファイル類をダンボール3箱分、どっさり出してきた。子どもたちは学校を卒業して、もう何年も経つのに、制服とカーディガンが3着ずつあった。捨てるに忍びない、と思いつめた感じの顔で彼女が言うので、わたしはその中から欲しいものを選んでひと箱に納め、持ち帰った。それもまた、住所不定のまま半年が経つ。

明後日までに片付けておかなければならないのだが、果たして、どうなることだろうか。


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